外島貴幸「背中を盗むおなか」
コント、パフォーマンス、ジェンダーチェイシング
外島貴幸「背中を盗むおなか」
2016年5月14日(土) blanClass
1.
外島さんの携わる作品は常にそういう性質を持っていますが、「背中を盗むおなか」も、事物を構成する要素がほどけ、もつれ、絡み合い、引っ張り合ったり千切れたりしながら展開していく作品でした。こうした「絡まり」の量は、これまでに見た外島作品の中では今作が最大で、おそらく彼の経歴の中で最も複雑な作品の一つになったんじゃないかと考えています。
ソロパフォーマンスの今回は、ある程度の尺を持った時間の中で問題を収束させる/回収しないでおくというストーリーテリングの手法として観ることができ、その点でも参考になりました。
2.
本人演じる作中の外島さんは、作品の発表に向けて案を練りますが、気がついたら本番当日。パニックに陥った外島さんはものとものとを取り違え、ものと人物とを取り違え、さらにはそれと自己とを取り違えていきます。舞台上の相関関係は否応なく入り乱れ、常時観客に状況整理を迫りますが、実体験を元にしたという作中のこの外島さんは、本当に混乱してしまっているのでしょうか。
blanClassに駆けつけた外島さんは黒板の前に立ち、レクチャーを始めます。…ここにレールに括り付けられた人が三人います。今まさに列車が走って来るこのレールの途中には分岐点があり、もう一方の道筋の先に括り付けられているのは一人です。分岐点を操作し、列車の進路を変更することができるとしたら、あなたはどうしますか。
ものは答えます。助かるなら三人の方がいいです。外島さんは書き足しながら答えます。
今しがた列車の進路として設定したレーンにいるその一人が外島貴幸である可能性。そしてその外島貴幸が実は「外島」と「貴幸」の二者である可能性。さらに「外島」と「架空のミドルネームを持った一者」と「貴幸」の三名である可能性。極め付けには、「先に登場した三人」も「これと同じ三名」である可能性。
どちらにせよ轢かれてしまう! 外島さんはチョークをほっぽり投げます。
3.
それではここに外付けハードディスクが二台あるとしたらどうでしょう。一台がハンマーで叩き壊され、もう一台は残されることがわかっていますが、それがどちらであるかということまではわかりません。確実にデータを保管するにはどうすれば良いでしょうか。
すぐにもわかる通り、どちらのハードディスクにも同じようにデータを書き込んでおけば良いのです。これを先のレールの話に当てはめると、同時にどちらのレーンでもあるという「外島貴幸」は交換不可能な個別のハードディスク本体というよりも、むしろ保護されたデータの側であったとみなすのが適切ではないでしょうか。つまり、追い詰められた外島さんが《「先に登場した三名」と「分岐の先に発生した三名」が同じである》という奇妙な論理を持ち出してみせたことによってはじめて−−−状況は変化していないにもかかわらず−−−「彼(ら)」を絶対に損なわずに助け出す道が捻出されていたのです。
したがって、外島さんは絶望する必要はありません。チョークを投げなくても良かったのです。
4.
不条理な苦難の連続を、ひとは現実と呼びますが、不条理を笑いとして克服するには、「もし」や「つもり」といった置換を積極的に発動させる必要があるのでしょう。そして「現実」の困難に向けて運用したそれはもはや「取り違え」ではなく、「例え話」と称されるようになります。そうすると例えば性差のように、ともすると絶対視されかねない観念の恣意性に敏感な人は、対応する二項の互換性という発見を通じて世界の見え方を改変する、貴重な機会に恵まれているのかもしれません。黒板の図も「例え話」のままでは終わらずに、「自己」の定義を転倒する手段として描出されているのです。
Miss Li –“Transformer”
https://www.youtube.com/watch?v=6lADQRaN4W8
(佐々木つばさ)