ポリ画報通信

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『神様メール』

あらすじ

 神は−−−−地球上のいかなる教義とも異なって−−−−ブリュッセルに住んでいる。大小さまざまな法則を生み出して人々に災厄を与えるばかりか、自宅アパートに家族を軟禁し、言動を制限して暴力を振るう最低のクソ親父だ。家出したきり戻らない兄のキリストに倣い、今度は妹のエアが人間世界への秘密の脱出口、ドラム式洗濯機に飛び込んだ。『新・新約聖書町山智浩氏によると『最新約聖書』:町山智浩 映画『神様メール』を語る)』を作れば何かが変わる。そう語った兄の言葉を胸に、エアは新しい使徒たちに会いに行くことにする。

 

神話1:知の巨人

 こと神の子らにとって、家出とは壮大なクーデターに他ならない。エアが神の機密情報をリークする際、どさくさに紛れて召命した使徒が、隻腕の美女オーレリー、小鳥大好きジャン=クロード、妄想癖のマルク、保険屋改めスナイパーのフランソワ、恋に恋する主婦マルティーヌ、女の子になった少年ウィリーの6名だ。

 彼らにはしばしばモデルの存在が見え隠れする。浮浪者ヴィクトールの丸い鼻はユーゴーそのものだし、ゴリラと恋に落ちるマルティーヌのエピソードは大島渚の『マックス、モン・アムール』(1986)と重なる。となればフランソワは『アメリカン・スナイパー』(2014)のクリス・カイルか。

 加えてマルクの半生が語られるエピソードではポール・ヴァレリーを思い出してしまって仕方がなかった(参考:清水徹『ヴァレリー』 - Living, Loving, Thinking)。顔が似ていないのはファンに遠慮しているというより、恋愛のパッションで大事を成した偉人が他にいくらでもいるせいなのかもしれない。真相は誰であれ、このマルクがカリカチュアライズされた喪男インテリゲンチャなのだとすると、性風俗に全財産を投資する彼のやんごとなき情けなさによって遂行されているのは、「知の巨人」神話の解体とでも呼べそうな、全き偶像破壊ということになるわけだ。

 

神話2:女神の知恵

 一行が破壊するのはインテリ神話にとどまらない。例えばこの映画のチラシ。男女どちらにも媚びない神の娘は仏頂面をキープするので、チラシの笑顔などはほとんど「奇跡の一枚」と呼んでも差し支えないほどであり、それだけで日本の配給会社が苦し紛れに落とし込んだ“愛くるしい少女が巻き起こす奇跡のファンタジー”という紋切り型の設定を見事に裏切ってくれる。大女優カトリーヌ・ドヌーヴはゴリラの子(?)を出産して種族の壁を突破するし、「女の子になった」ウィリーと神の「娘」エアはあっさりカップルになって、すべてのLGBTが陥りかねない言葉の罠を華麗にスルーして行った。

 謀反には母も加わる。神の妻は夫の言いつけに従って、全くと言っていいほど発語しないし、していることと言ったらほぼ掃除だから、家政婦というよりもルンバに近いくらいの存在だ。監督は女神を「知恵」と呼ぶのにはあまりにも頼りないキャラクターに仕立てることで、グノーシス派に与する異端映画とのレッテルを退ける切り札としたのだろうか。もちろん地母神と見るにもインドア派すぎるし、愛嬌あるルックスを活かして魔女になれるほど自立してもいない。確かに全然かっこいい女じゃないんだけど、だからと言って女性蔑視とつかみ掛かることなかれ。この誰でもない女神は、ただ自身が一切のロールモデルたりえないことによってのみ、女性に押し付けられるあらゆる理想像を拒否しうることを知っているのかもしれないのだから。

 

神話3:消えた銃撃

 さて、モーセ的スペクタクルシーンを担当する冒険家、ジャン=クロードを除くと、残る使徒は隻腕の美女オーレリーということになるだろう。オーレリーは凄腕スナイパー・フランソワに狙撃されるものの、義手が盾となって、撃たれたことにすら気付かない。フランソワはこの奇跡を前にして恋に落ち、彼女のためにスナイパーを廃業する。

 オーレリーの特徴を挙げてみよう。眉根を寄せた悲しげな表情と、東洋の血を匂わせるどこか異国的な顔立ち。左腕の損傷を含めて同じ特徴を持つ人物を一人見つけた。ロシア系ユダヤ人、Joseph Trumpeldor(1880-1920)だ。Trumpeldorは、日露戦争に従軍し、捕虜として大阪に抑留される中でユダヤ人としてのアイデンティティを確立。後にイスラエル国防軍の設立に関わることとなった「英雄」である。日本兵から学んだ「祖国のために死ぬ」という態度を理想としたらしい。でも「彼女」は死ななかった。

 本当にこの読み替えが可能であるとすれば、“「アメリカン・スナイパー」との恋愛物語”が持つ射程は存外大きい。あるいはこれ自体は私の荒唐無稽な思い付きに過ぎなくても、この軍人二人に職業以外の共通点があった、と記すことはできるはずだ。タナハとキリスト教経典という違いを無視することはできないけれど、両者ともにアブラハムの宗教が培ってきた書物に接していただろう、と。

 

ハッピーエンドへの想像力

 ちなみにここに書いたことを全然考えなかったとしても、『神様メール』は通常通りのルートで無事鑑賞することができる。というか、ここに書いた迂回路は全部私の妄想かもしれない。それでも心優しい誰かが引き続き私の寄り道に付き合ってくれるとして−−−−監督がこれらの取り扱い注意な案件をただ引っ掻き回すだけじゃなく、すべてに暖かい眼差しを注いでハッピーエンドを目指している、ということには同意していただけるのではないだろうか。神様のこっぴどい扱いについてはロン・カリー・ジュニアの小説『神は死んだ』を思い出したが、表現の自由って、誰かが大切にしている何かをなじり倒す自由である以上に、それを愛し、守り通す方法の自由であるはずだ。

 宗教感情に配慮するあまり、奇妙な言い控えをしてしまうことがあるが、こうした勇気ある作品が元に存在していること、そしてそれ以上にこうした作品を受け入れるだけの土壌があるという事実に驚き、かつ励まされる。誤解はできるだけされないようにしたい。けれどもそれを恐れるばかりでは、誰かのためにできることでさえ、とてつもなく少なくなってしまう。

 

神話4:神様の正体

 『神様メール』ではあらゆる想像力がハッピーエンドに向かって賑々しく進行していくわけだけれども、そんな中、常に例外として締め出され続けていたあの最低な神様は一体誰だったのか。すべての信仰心を小馬鹿にし、そのくせ“唯一のメタ視点を持つ”自分を崇拝して、実質人間以上のどんな能力も持ち合わせてはいない、そんな神様。…一読してわかる通り、これは神ではない。粗暴な無神論者だ。

 彼は強制送還された国で工場労働者となり、大型家電の組み立てに従事することになる。窮屈なルーチンワークによって量産されるこのマシンこそ、もはや自分がくぐることのできない異次元の扉であり、神の子らを地上に送り込んだ、あの洗濯機だったのではないだろうか。

 

 

(佐々木つばさ)