Post Studium シンポジウム - デウス・エクス・マキナ、あるいは2040年の夢落ち
シンポジウムをきいて思ったことなど書きたいと思います。
Post Studium シンポジウム –デウス・エクス・マキナ、あるいは2040年の夢落ち
2015.3.27 本多公民館(国分寺市)
このシンポジウムは一般観客に開かれた企画でしたが、話の文脈はポストステュディウム芸術理論ゼミから続いています。パネラーの岡﨑さんの考えは、それ以前の四谷アートステュディウムから一貫したものがあると思います。例えば、「美術手帖」2008年8月号の特集、現代アートの基礎演習(岡﨑乾二郎監修)などでみられるような、(メディアというより)メディウムという観点、人間という前提条件をこえる、といったポイントがあると思います。また近年、人工知能、脳、意識、ロボットなどの研究開発が進んで、それが社会にインパクトを与えていますので、そういうことも取り入れられています。予告では、いわゆるシンギュラリティ問題が目立っていましたが、当日は、それは直接にはあまり話されませんでした。パネラー三人とも何かつくっているアーティストなので、互いに話をしやすいように感じられました。
藤幡さんは、これまでのご自分の仕事、展示資料などをバインダーにまとめた本のようなものを作っておられて、その資料それぞれにARが付いています。ARアプリが入ったものをかざすとAR動画などを見られるようになっています。展示会場を擬似体験できたりするようでした。後日ネットでみると、AR作成ツールの説明などあって、それなりにPCを使える人ならある程度のものはできるみたいで、私はARについてそれほど知らなかったのでちょっと驚きました。紙媒体とARの組み合わせはもっと普及していくのでしょうか。「ポリ画報」という紙媒体にとっても関係あることだと思いました。
シンポジウムでは、宇川さんがジェネラルディレクター・キューレーターをされた「高松メディアアート祭The Medium of the Spiritメディアアート紀元前」(2015.12.18-27)の紹介がされたりもしました。
宇川さんは、他の人のサインをその人になりきってそっくりに書く、ということを10年くらいされているそうで、そんなことをされているとは知りませんでしたが、これまで1000枚分くらいの人のサインを書いてきたそうです。職業的霊媒師のようになって書くのでしょうか。ネットを検索すると有名人のサインは画像があるのでそれを手本にしているそうです。自分をメディウムにするアートだと思いますが、そのさいに、自分を消しても消しきれないものがあるというようなことを言われていました。
高松メディアアート祭では、大本教の出口王仁三郎も取り上げられていました。お筆先(を書いたのは出口なおでしたが)は、自分から書き始めるので自発的(おのずから)ですが、意志的(みずから)ではない、ようにみえます。意識しているのに意志はしていないで、書くという能動的な行為を受動的にしているようです。宗教という文化的制度のもとで、自分が自分より高次のものに明け渡されているような状態で、かなり自分を消しているように思えます。
高松メディアアート祭には岡﨑さんが共同研究されている一種のロボットも出展されていました。ドローイングする筆記具の先の運動(筆圧や速度や方向などの変化)をデータ化して記憶し、それを画板(紙など貼ってある)の運動として再生し、手に筆記具を持ってその先を画板の動きにあてていると、データ化されたドローイングが描かれていきます。このとき、筆記具を持ったまま手を動かさずにいればドローイングの再現度は高くなります。でも、線を見ながら無意識的(?)なフィードバックで手が動いてずれていることもあります。筆記具の先に注意を集中して見ていると、手がつられて動きやすくなるかもしれませんし、実験状況全体に気を配って気持ちの距離をもって見ていれば、意識的に手を止めていられるかもしれないです。しかしもしかしたら、無意識的に手が動いている方が、自分が描いているという主観的な感じがあるかもしれないという気もします。この実験作品は、自分が描いているのではないのに自分が描いているように感じさせる仕掛けです。誰のドローイングでも描けるし、そのドローイングを誰でも描ける、ともいえます。私を渡すメディウムとしてのロボットだと思います。
メディウムへの転回は、自分は自分のものだという自己所有の原理、(近代的な)人間の条件を変えるものだと思われます。自己所有を前提としない経済や政治など考えられるのか、このシンポジウムは、革命という語も使われていましたが、ラディカルなもののありかにふれていたように思います。
(原牧生)
イベントのためのメモ
一本の鉛筆などを二人で持って(下を持つ人は利き手でない方で、上を持つ人は利き手にする)絵を描くことを、(イベントのために)トランスドローイングと名付けました。「ポリ画報vol.3」表紙の写真は、実際に制作しているときの記録写真です。
こうして描くのは、例えば、二人で接触を保ちながら即興的にダンスをするような感じに近いものがある気がします。
今回のイベントでは、「ポリ画報vol.3」のもとになっている夢テクストから、参加者でどれか選び、夢テクストから想像された場面や印象的なイメージを描きたいと思います。その場合、全くの即興とは違います。
「vol.3」では、夢テクストから想像あるいは喚起される感情を非具象的に描く試みもしたのですが、その場合はより即興に近付きます。
いかに夢経験の絵を描いてるつもりになれるかというのがポイントです。夢テクストを読んでいただいて追体験的に想像できるといいのですが。夢のイメージの再現が目的ではなく、二人の手がどういう動きになるかを楽しめればいいと思います。
まず、想像したことや夢のついでに思ったことなどを話し合ったりしたいと思います。それによって、他の人の想像に影響を受けて想像し、自分の想像が他の人の想像が取り込まれた想像になるといいと思います。
描くときは、何をどう描くか二人で話しながら描くのもよいです。二人で描いていると、相手の方にリードされているように感じたりしますが、その相手の方もそう感じていたりするようです。
「vol.3」のドローイングは、夢を記述し語り合うプロセスを共有している人どうしでやっていました。今回のイベントは、そうでない方と一緒にどのような絵を描けるかたのしみです。
(原牧生)
「ポリ画報 vol.3 transdreaming」紹介動画
ポリ画報 vol.3 transdreaming 刊行イベント
3月18日(金)、19日(土)に「ポリ画報 vol.3 transdreaming」の販売・刊行イベントを新井薬師のスタジオ35分で行います。
この2日間は「ポリ画報 vol.3 transdreaming」を特別価格でご購入いただけます。
また、19日には2人で画材を持って絵を描く”トランスドローイング”を実演。ご参加いただけます。
ぜひこの機会にご覧ください。
transdreaming in 新井薬師
ポリ画報 vol.3 刊行!販売イベント
会期:3月18日(金)18-23時
19日(土)15-23時
場所:スタジオ35分
東京都中野区上高田 5丁目47−8
http://35fn.com/
「ポリ画報 vol.3」販売 定価2000円→1700円
「ポリ画報 vol.2」(500円)も販売します。完売したvol.1もご覧いただけます。
19日:17時頃からトランスドローイングの実演。参加できます(随時)。ほかアンビエント朗読など。
1drink オーダーお願いします。隣にバー35分があり、「婦人会」がおいしい料理をつくっています!
(辻可愛)
「ポリ画報 vol.3 transdreaming」完成しました。
ポリ画報 vol.3
transdreaming
絵、テクスト/原牧生、辻可愛、外島貴幸、佐々木つばさ
絵/辻可愛
漫画/外島貴幸
詩・言葉あそび/原牧生
編集デザイン/佐々木つばさ
B5サイズ 60ページ 2015-2016年制作 価格2000円
transdreaming について (原牧生)
瞑想、観想、空想、あるいは、幻想、幻覚、妄想、これらは、虹の色が並んでいるように、夢や夢想ととなりあっている。
眠っていないとき、夢は意識されない。しかしそのとき夢がないとはいいきれない。
浅い記憶から深い記憶まで、その人の日々の生の条件に応じて、再活性化している記憶がある、という生理状態は、意識されないあるいは表象されない夢であろう。
情動的な記憶が、もとの経験から別の場面や行動のイメージに投影され、新しい記憶に古い記憶が重なり合ったりする、夢は、一種の思考だ。
ポリ画報vol.3は、メンバーの四人で夢を語り合うという実験をした。はじめの仮定は、夢を語り合うプロセスを続けているうちに、他人の夢の影響を受けた夢をみるのではないか、ということだった。
夢を思い出せるというのは不思議だ。意識がなかったときのことを意識できるのだから。しかし、夢に関心をもつようになってくると、夢を意識しやすくなってくる。睡眠と覚醒の中間的な状態のときに、夢は夢うつつな記憶になるのだろうか。
夢を思い出すことは、夢を語ることになる(ならざるをえない)。イメージのままではすぐに忘れられるから、みたものを言葉にしていけるか(しておけるか)にかかっている。
夢を記述する(書く)とき、夢を思い出して保持している。部分的にすぎないけれど、思い出すことに集中していけば、その夢をまたみているようなものだ。
夢を語り合うとは、集まって話し合うことだが、他の人の夢の記述(夢テクスト・夢語り)を読み合うことでもあった。そうすると、夢の場面、そこにみえているものなどが、思い浮かぶところもある。他人の夢経験そのものは不可知だ。しかしそれでも人間は言葉をつかっている。言葉に介された夢が夢なのだ。
言葉から想像する、というのは、その言葉から何か思い出される、連想もともなってみえてくる、ということであろう。夢をみた当人が想起する夢と、その人の語りの言葉から想像されるものと、どれくらい違っているかは分からない。
いくつもの夢の記憶としての夢テクストの集まりをつくる、そこから特徴のようなものを見出す、いくつかの夢テクストから夢テクストの再構成をする、夢の話をしながらそういうことをしていると、夢テクストの記憶が自分の記憶に取り込まれる。
自分の夢の記憶と、他人の夢テクストからの想像(の記憶)と、経験としての違いは何だろうか。一方が現実の記憶、他方が架空の記憶、とはいえない。
そのうえで、何か絵を描いたり表現する。
分かりにくいたとえだが、何かある曲を即興音楽として演奏するみたいなものかもしれない。モチーフの再現や変奏よりも、曲想のようなものに動かされる、とらえられない記憶のドライブ。
それは共同の記憶だが、共同の記憶に同一性はない。その同一化は歴史の捏造のようなものだろう。同一性がないままに表現をあたえてみる。
夢告や予知夢や占いなど、夢は人間関係的社会的なものだった。言葉を介し、語り合われることによって、記憶は記憶につく。
民話や神話は共同体の記憶で、共同の記憶が共同体の記憶に転化するプロセスがあったに違いない。
今回の企画を考えるにあたり、いろいろな本や作品から影響をうけている。
『ナンシー関の記憶スケッチアカデミー』(角川文庫)は、雑誌読者にお題を出して、記憶だけを頼りにそれを描いてもらい、投稿された絵を集めコメントを付けたもの。記憶と想起とそれを描くということの面白さをしらされた。
また、ハーモニーというNPOでは、日々のミーティングで精神障害のあるメンバーどうし自分の経験を語り合い共有し、「幻聴妄想かるた」というものをつくっている。そういう実践もリスペクトしている。
この試みは、夢のイメージの表現ではなく、(この冊子をみる人において)夢をみさせるものへの旅のようなものにならなければならない。
ポリ画報vol.3制作中の様子
裁断機でばしばし切っていきます。
色紙を贅沢に使ったので、裁断くずがキレイ!
(佐々木つばさ)
「E!x:創造する相同」展、テアトロコントvol.5
展覧会や舞台をみて思ったことなど書きたいと思います。
「E!x :創造する相同」展
2016.2.19-21、2.26-28 Nefrock Lab Ookayama
田中彰、村山悟郎、矢木奏
本展は、エウレカ・プロジェクトのウェブマガジン『E!』8号連動企画として開催されました。
村山さんの作品はドローイングを撮った写真を処理・構成したもので、その写真は、作家いうところの手数ごとに、描かれていく経過を追いながら撮られています。描かれていくドローイングは、形態生成の内側にある手がその過程を記述していることだとすると、その写真は、外側からの観測・記述といえるかもしれません。もし、それらの写真を時間軸上に並べたとしたら、過程の跡が示されます。過程そのものは、見ようとすると見られなくなるようなものだと思います。本作の試みは、写真という外部記述を反転させる内部化のような処理・構成の仕方で、見る人が、過程を過程として(内側で)見る、ようにさせる工夫、だったと思います。そして多分そのための手がかりは、一般に人が絵を描きながら引いて見たり寄って見たりしているようなことで、いわば観測者が動いている、動いている観測、ということにあるのではないかと思われました。これは、見る人にジレンマを実感させる知覚実験装置のようなものかもしれないです。とまって見ているものではなく、動いて関わるもののようです。
田中さんと矢木さんは、どちらも制作に他の人を巻き込んでいます。他の人からのレスポンスというあらかじめ分からないものが作品になっていきます。
田中さんの作品は版画で、絵がイコン的というか地の上の一つの図としてくっきり象られています。ウェブマガジンから気になる言葉をひろい、そこから受けるイメージを言葉からかたちにしています。言葉と絵を同時にみる(認知する)ことは厳密にはできないような気もしますが、そういうことを試みさせるようなものではないかと思います。
矢木さんの作品は、複数の人に葉書をかいてもらうプロジェクトで、かかれた葉書が全部集まると、作品は完成していないという意味の文ができるようになっています。自己言及とパラドクスの仕掛けがあり、また実際にはそれぞれの事情によって葉書が間に合うか分からないなど予測できなさも起こってくる、いろいろ考えられたモデル的なものだと思いました。
会場には企画関連の資料もあって、みることができます。こういう企画の探究が続けられていくといいのではと思いました。
テアトロコントvol.5
2016.2.28、29(この記事は28日のみ) Euro Live
生の舞台は、見えない無意識的なものが影響しているように感じられて、それが動いたり変わったりするのが不思議です。
一番目の「ニューヨーク」は、全く主観ですが、二本目になったら面白く感じられました。「ニューヨーク」のコントは、大まかにいえば、勝ち組的な上の人を下で茶化して笑うというような、大衆的欲望にそうものがあったと思います。二本目のコントは、偽悪的なパロディがノリよくいけたのでしょうか。
二番目の「テニスコート」は、現実離れしたアイデアが設定になっていて、架空度が高いやり取りがうまくいってるほど面白いというような感じで、ナンセンスを演じるセンスがポイントかもしれません。
三番目の「ジンカーズ」は、漫画家の吉田戦車さんの世界観をコントにできないかと考えたそうで、率直なコメントだと思いましたが、スタイルをつくってブレないつよさが感じられました。演劇から無駄を削いだものという考えで、その考えはベケットを連想させます。
四番目「玉田企画」は、後半になるほど、ここは稽古場だという設定がはっきりしてきて、いっけんメタフィクション的にみえてもそうではなく、意外と安定した枠の中でやっていたことになります。それでも観ている間は面白かったので(終盤は重くなりましたが)、上手いともいえますし、その時は小劇場演劇的なテンションがその場にあったのだろうと思います。
コント(=演劇)にとって、ベケット演劇(の笑い)には、笑いのアヴァンギャルドみたいなものの潜在的可能性があるのではという気もしました。人を笑わせることをつきつめていくと、人を狂わせることに近付いていくのかもしれません。その前に自分で自分が狂わされるのかもしれませんが。
(原牧生)