ポリ画報通信

「ポリ画報」の活動、関連情報、ノート

7月メモ

ゴードン・マッタ=クラーク展(東京国立近代美術館

 この人の仕事を美術館の中で紹介するというのは矛盾したことなのかもしれない。いわば美術館に穴を開けるような、現実の空間秩序と別の空間を経験させることをしていたのだから。

 作品というだけでなく行為じたいをアートとするような、アクションとかイベントとかいわれていたものに近い感じがした。

 ごみのようなもの、役に立たない空間、そういう、お金がかかる経済システムや制度的な管理の周縁にあるものを扱っている。

 食堂の経営のように有用なことは、この人個人のアートの仕事とはちょっと違うのではないか。本展の説明では、“豊かな生活やコミュニティの創出に貢献する方法を模索”とあるけれどそうだろうか。このいい方は誘導的なのでは。

 

メルド彫刻の先の先(Maki Fine Arts)

 本展は、白川昌生さんが1983年に企画した「日本のダダ-日本の前衛1920-1970」展から35年たったことを契機に企画された。メルド彫刻あるいはメルドアートは、白川さんがシュビッタースのメルツにならって提唱したもの。メルドは、素材と方法がDIY的なものらしいがそれだけでははっきりしない。本展は、白川さんからみてメルドっぽいことをしている又はしてくれそうな作家を集めたのだろう(豊嶋康子、冨井大裕、橋本聡、麻生晋佑)。

 会場には「日本のダダ-日本の前衛1920-1970」展の資料があり、白川さんの文章を読むと、マヴォ、具体、60年代の前衛などが、政治・社会との関係から歴史的に考えられている。それが本展企画の文脈とすると、本展は、日本のダダや前衛という過去の出来事のようなものたち(にあった可能性)につなげられている。今日の前衛的なもの(前衛性のようなもの)を可視化しようとしたといえるのかもしれない。

 

O,1、2人「おれのPC(パーソナル・コレクトネス/ポリティカル・コンピューター)」(TAILON GALLERY)

 演劇・コントのかたちで、「おれのPC」というテーマを、主張的でなく暗号的というか暗黙に扱っている。はじめにカフェの場面で、注文をダイレクトに言わず(言えず)、言い換えている。言おうとすると言えなくなってしまう、「おれのPC」とはそういうものなのだろう。無意識的なもので、それを表現しようとすると、夢の作業のように変換され、ずらされる。例えば、ムーンウォーク地球の歩き方→実は木星にいる、という連鎖のコントがあった。多分、「おれのPC」と関係あるのはマイケル・ジャクソンなのだ。しかし、それはそれとしては扱われず、ずらされていく。というような見方ができるのではないかと思った。

 また例えば、女、男、という語を使ったコントは、コントとしていってることと同時に別のことをいっている、というふうにできたらもっとよかったのでは。ファッションショーをひねった「パソ・コレ」は、性別とPCに関わることをうまく扱えてた気がした。それから、~狩りといって、言葉がいわば分裂的変奏をして、演劇的演出もエスカレートしていくのも面白かった。

 

(原牧生)

6月メモ

テニスコートのコント「浮遊牛」(ユーロライブ)

 

 いくつかのコントで構成されている。個人的によかったのは例えば次のようなもの。

① 三人いて、それぞれ一人で過ごしている。うち一人が、ふとひとり言をいう。他の二人が、その言葉につっこみを入れる。

② ①と同じ人が、またひとり言をいう。①よりわざとらしいので、他の二人は関わろうとしない。①の人は声を大きくしたりして無理やり関わらせる。

③ ①と別の人がひとり言をいう。それはわざとだが、思いがけないひとり言らしさを出すのは難しいというような話になる。

④ ひとり言をいってつっこませるのが一種のゲームになっている。つっこみも、それがどうできているかという方にメタ化している。

⑤ 三人それぞれひとり言をいおうとしてぶつかる。いう人の決め方など調整を試みてもうまくいかない。

⑥ 三人それぞれ他の人に関わらずひとり言をいい始め、いい続けている。暗転。

 場面や人物(役)など舞台設定がほとんどなく、言葉じたいに引っかかる面白さが抽出されているように感じられた。またあるいは、SNS的コミュニケーションを連想させなくもない。

 

「絵と、」展vol.2藤城嘘(gallery αM)

 

 PCの画像では分からなかったが、実物をみると力というか勢いのある絵に感じられた。ギャラリーの本棚に作家が選んだ本があり、どういう文脈で制作しているかが分かる。そのいわば戦略性は筋が通っているように思えた。もしかしてこういうのが(日本の)現代アートのど真中なのだろうか?…という気も少しした。

 日本語の文字を描き込んで絵にできているのが、やり方の参照はあるにしても、特長だと思えたし参考になった。「ポストモダニスム」を平がなで描いたものなど、コンセプチュアル・アートというわけでもない絵として、海外の作品ではありそうだけど日本語でやるのは難しそうなことがなされていたと思った。

 

白井晟一の「原爆堂」展(Gallery5610)

 

 「原爆堂」の建設実現を目指すプロジェクトが模索されているということで、本展は、白井晟一の仕事をアクチュアルに活かそうとする動きのなかにある。7月には晶文社から『白井晟一の原爆堂 四つの対話』という本が出されるそうだ。

 原爆堂についての白井晟一の文章があり、造型のピュリティ(英文ではformal purity)という言葉がつよく心にのこる。この建築は、広い意味での宗教と芸術が本質で一体であろうとする施設、という感じだ。超越的というか人間レベルとは別の次元(の経験)を、物質的に実現させようとする。造型のピュリティformal purityは、そういう(建築の)理念であるように思える。

 

(原牧生)

5月メモ

ハロー・ワールド 展 (水戸芸術館

説明的に思える作品が多い。

あるいは、どういう作品か説明がついてしまうような作品。

(本展の)アーティストは分かっている立場だ。

そうでなくてもよいはず。徴候的なもの、それじたいが徴候であるような事物や事象、発見的価値はそれら(又はそれらを見出すこと)にある。

(本展の)作品から情報社会という物語を除けば人間的欲望に変わりない。

昆虫(的)というのはポスト・ヒューマン的かもしれない。

 

上映会「イヨマンテ-熊おくり」 (路地と人)

アイヌは、日本国内のマイノリティというより、ユーラシアのひろがりでとらえられる存在だ。

(かつての)狩猟民の暮らし、文化、共同体のこころ。

いまある国境や国家の歴史と別の世界が潜在する。

 

ぴちぴちちゃぷちゃぷらんらんらん’18 (あうるすぽっと)

神村さんの振付に、十数人の出演者全員が舞台前際に一列横並びで、舌で口蓋を弾き(?)、ランダムにあちこちで舌の音が響く、というのがあった。自分の体での一人遊びみたいなことが集団の表現になっている。ユニークでユーモラス。

福留さんは、出演者が自己振付したものを構成・演出した。その人が選んだ言葉(動詞)が元にある。言葉から体の動きへ、それは言葉のイメージというものだろうか(違うような気がする)。言葉の意味から連想を連鎖。意味伝達の(媒体の)抵抗。

 

(原牧生)

4月メモ

ルドン展(三菱一号館美術館

 幻視というのは自分の中の想像や夢想が自分の外に見えるということだろうか。幻覚はおそらくもっと受動的で、視覚的空想力のはたらきの度合いの違いがあるのだろう。壁画に描かれたひな菊など見ていると、サイケデリックという言葉も連想される。そもそもサイケデリックのグラフィックは、(19C)世紀末芸術を参照して影響を受けていた。何となくサイケデリックの方が、受動的であるような気もする。それは大衆化と関係あるのだろうか。

 ゴヤへの尊敬や共感。ゴヤは病気で耳が聞こえなくなったが、そのため内的集中力が強まったのだろう。奇想という言い方もあるが、それは想像が勝手に?動いていくことなのかもしれない。画家の仕事をみていると、描くことが見ることかと思えてくる。

 ルドンの作品は、タイトルが詩の断片みたいに感じられ、この人は視覚イメージだけでなく言語センスの人でもあったのだと思える。マラルメとの親交など知られている。象徴主義というとまさにファインアート、芸術のための芸術という感じもする。それが壁画とか家具とかタブローと別のかたちになっていると、視覚芸術であるだけではない総合性のようなことが実感される。トポスというような感じがする。

 

小林耕平個展(山本現代

 映像出演の山形さんが面白く(もちろん小林さんも面白いが)、二人のコントのようだった。もとが落語や小噺だからか。言葉と現実(もの)の対応が言葉の独走によってずれていき、言葉は言葉じしんの論理で動いていく。詩的論理ともいえるような言葉で対話が続く面白さ。しかし上手すぎるとスノッブに感じられるかもしれない。分かっている人の言葉でなく、共同で探究するような、セッションであるのがよいのだと思う。ものと言葉のセッション。もの(現実)から言葉はずれていくが、その言葉はナンセンスではない。比喩のリアリティというようなことも考えさせる。

 

梅津庸一キューレーション展(URANO)

 「共同体について」。個々の作品が、というより出展作家たちの文脈、それを集めている。例えばパープルームにしても既存の美術大学や教育制度から自らを区別することによって成立した面があったはず。例えばそういった排除の力関係みたいな共同体の条件が、この展示にあるだろうか。

 

wwfesそかいはしゃくち(BUoY)

 4日間の会期の最終日、「ライブ」「クロージング・パーティー」に行った。このフェス(のテーマ)は、「共同体について」という問題設定をさらに更新したものといえそうだ。そこにずっといたらそう思えてきた。パフォーマンスの内容的には、言葉の比重が大きいのが印象的だった。それが、ラップとかブレイクダンスとかヒップホップ的なものともつながっている。ヒップホップは主張が強い文化だ。アメリカ的な、対決によって自己を確認していく共同体形成力がある。即興力が魅力だが、案外様式的にもなりかねない。

 ところで、梅津さんがキューレーションした展示には、ヒップホップ的な強さ(の原理)とは異なる価値観というか、テイストがあったと思う。そこに、「共同体について」のビジョンがあるのかもしれない。

 

(原牧生)

3月メモ

あなんじゅぱすライブ、ゲスト藤井貞和ネイキッドロフト

 藤井さんが、自分が書いているのは「現代詩」だと話していたのが印象的だった。短歌のように続いているかたちがあるものではなく、いつ書けなくなるか分からない、いつでも書けなくなりうるものとしての現代詩。それはそのつど発明しているようなものではないだろうか。短歌はうたといわれるが、(う/た)は、現代詩がうたでありうるか、ありうるとしたらどのようなうたなのか探っているような表記だと思う。あなんじゅぱすは、コロンブスの卵的に現代詩をうたっているように思えた。

 

マイク・ケリー展、ワタリウム美術館

 現代のフォーク・ロアみたいというか、フォーク・ロア的なものがポップであるというような、物語の力があった。アメリカってこんな感じなのだろうか、と思わせるような。

 個人の記憶・妄想・トラウマなどかもしれないが、素材はドキュメントだ。その経験は、学校や地域コミュニティでのイベント、いわば行事の儀式性みたいなもの、宗教的土壌がつよく感じられる共同体性の抑圧感であったりする。

 

橘上NO TEXT-本を読まない朗読会、ゲストカゲヤマ気象台、BUoY

 アフタートークで素朴という言葉を強調していたが、彼のいう素朴とは何だろう。文脈やクオリティで認められるようなものではないということだろうか。練習をしない、というポリシー(?)とも関わる。演技しない(演技にならないようにしている)即興。

 

tnwh ライブ、おんがくのじかん

 「俺は仕事が嫌い」という曲は、詞の書き方がよかったと思う。これこれの仕事何々の仕事という反復は、生活経験のディテールではなく、私の経験に依存していない、経験から自律した言葉の操作だ。形式感があるというか、仕事が嫌いという断定が、ほとんど理念的に感じられる。仕事が嫌いな俺とは誰でもあるのかもしれない、例えば聴いている人、そこにインパーソナルな可能性がある。

 

(原牧生)

2月メモ

世界に対する知と信 TALION GALLERY 駒込倉庫

 正面切ったタイトルでやや一般論的な感じもするけれどストレートだ。

 例えば、高柳恵里さんの作品に、紙や毛布や小さな電卓や空き缶が、いっけんただ置いてあるように見え、よく見るとそれらが底面の細工によって少しだけ浮かせてあることが分かる、というものがあった。それらを、目立たないがちょっと浮いている物として見ていると、周りから切り離されたあるいは独立した、単独の物としての在り様に見えてくる。そしてそれは、本当はそうではないのだ。

 そういういわば宙吊り状態にすること、それが答えなのか?

予兆 名絵画探偵3 blanClass  第10回恵比寿映像祭 東京都写真美術館ほか

 Whales+けのび、協働作だが、それぞれがそれぞれのまま重ねられたような感じだった。出演者の一人は、“起きていることを見られないでいるのを話す”という一種のインストラクションを実演する。名絵画探偵は、『Clairvoyance(透視)』という絵について語ったりする。今年の恵比寿映像祭のテーマは「インヴィジブル」だが、意外とテーマが近いのではないかという気もした。「インヴィジブル」は、見ることに対する知と信、といえる問題だったかもしれない。『予兆 名絵画探偵3』は、見ることは言葉にすることだ、というテーゼのようなものを考えさせる。意識しなくても言葉にしている、ということ。

絵画の現在 府中市美術館

 イメージを描いた作品が多いなかで、諏訪未知さんと白井美穂さんは違って、大まかにいえば考えを描いている。考えの説明というより考えの実践あるいは考えの具体化であろうとするのだと思う。それは言葉によらないプロセスといえるだろうか?

 ネアンデルタール人が描いたという絵が発見されたそうで、その映像を見た。ネアンデルタール人には言語がなかったとされている。あの絵は、何かのイメージなのか何かのしるしなのか、模様みたいなものなのか、何なのだろう。

 

(原牧生)

1月メモ

 practice、affair、などとよばれた堀浩哉さんの’70年代の試行を振り返る機会があった(金子智太郎・畠中実、日本美術サウンドアーカイヴ、1月7日三鷹SCOOL)。

 学生の頃古本屋で買った「美術手帖」のバックナンバーで写真など目にしたことがあり、ポイエーシスではなくプラクティス、ということは印象に残っていた。今回、説明の文章も配布され、何をしていたのかを知ることができてよかった。会場に彦坂尚嘉さんもおられて発言されたりして、何となく時代性を感じることもできた。

 しかし、その当時においては説明するまでもない状況や、問題機制、どうしてこうしなければならないのか・何をやろうとしているのかというようなことは、今では過去のものになっている。

 問題は問題でなくなってしまったのだろうか。

 これらをパフォーマンスとよぶことは後付けで、パフォーマンスという制度に回収しているようにも思える。

 闘争を持続するために何をすれば闘争の持続になるのか、というような問題は、過去化している。

 物語を信用しない、意味解体的作業。

 日常性のなか、還元的、退屈な闘争。

 個人でできること、それは(ものとコンセプトと)言語行為に関わっている。

 

(原牧生)