ポリ画報通信

「ポリ画報」の活動、関連情報、ノート

「E!x:創造する相同」展、テアトロコントvol.5

 展覧会や舞台をみて思ったことなど書きたいと思います。

 

「E!x :創造する相同」展

2016.2.19-21、2.26-28 Nefrock Lab Ookayama

田中彰、村山悟郎、矢木奏

 

 本展は、エウレカ・プロジェクトのウェブマガジン『E!』8号連動企画として開催されました。

 村山さんの作品はドローイングを撮った写真を処理・構成したもので、その写真は、作家いうところの手数ごとに、描かれていく経過を追いながら撮られています。描かれていくドローイングは、形態生成の内側にある手がその過程を記述していることだとすると、その写真は、外側からの観測・記述といえるかもしれません。もし、それらの写真を時間軸上に並べたとしたら、過程の跡が示されます。過程そのものは、見ようとすると見られなくなるようなものだと思います。本作の試みは、写真という外部記述を反転させる内部化のような処理・構成の仕方で、見る人が、過程を過程として(内側で)見る、ようにさせる工夫、だったと思います。そして多分そのための手がかりは、一般に人が絵を描きながら引いて見たり寄って見たりしているようなことで、いわば観測者が動いている、動いている観測、ということにあるのではないかと思われました。これは、見る人にジレンマを実感させる知覚実験装置のようなものかもしれないです。とまって見ているものではなく、動いて関わるもののようです。

 田中さんと矢木さんは、どちらも制作に他の人を巻き込んでいます。他の人からのレスポンスというあらかじめ分からないものが作品になっていきます。

 田中さんの作品は版画で、絵がイコン的というか地の上の一つの図としてくっきり象られています。ウェブマガジンから気になる言葉をひろい、そこから受けるイメージを言葉からかたちにしています。言葉と絵を同時にみる(認知する)ことは厳密にはできないような気もしますが、そういうことを試みさせるようなものではないかと思います。

 矢木さんの作品は、複数の人に葉書をかいてもらうプロジェクトで、かかれた葉書が全部集まると、作品は完成していないという意味の文ができるようになっています。自己言及とパラドクスの仕掛けがあり、また実際にはそれぞれの事情によって葉書が間に合うか分からないなど予測できなさも起こってくる、いろいろ考えられたモデル的なものだと思いました。

 会場には企画関連の資料もあって、みることができます。こういう企画の探究が続けられていくといいのではと思いました。

 

テアトロコントvol.5

2016.2.28、29(この記事は28日のみ) Euro Live

ニューヨーク、テニスコートジンカーズ、玉田企画

 

 生の舞台は、見えない無意識的なものが影響しているように感じられて、それが動いたり変わったりするのが不思議です。

 一番目の「ニューヨーク」は、全く主観ですが、二本目になったら面白く感じられました。「ニューヨーク」のコントは、大まかにいえば、勝ち組的な上の人を下で茶化して笑うというような、大衆的欲望にそうものがあったと思います。二本目のコントは、偽悪的なパロディがノリよくいけたのでしょうか。

 二番目の「テニスコート」は、現実離れしたアイデアが設定になっていて、架空度が高いやり取りがうまくいってるほど面白いというような感じで、ナンセンスを演じるセンスがポイントかもしれません。

 三番目の「ジンカーズ」は、漫画家の吉田戦車さんの世界観をコントにできないかと考えたそうで、率直なコメントだと思いましたが、スタイルをつくってブレないつよさが感じられました。演劇から無駄を削いだものという考えで、その考えはベケットを連想させます。

 四番目「玉田企画」は、後半になるほど、ここは稽古場だという設定がはっきりしてきて、いっけんメタフィクション的にみえてもそうではなく、意外と安定した枠の中でやっていたことになります。それでも観ている間は面白かったので(終盤は重くなりましたが)、上手いともいえますし、その時は小劇場演劇的なテンションがその場にあったのだろうと思います。

 コント(=演劇)にとって、ベケット演劇(の笑い)には、笑いのアヴァンギャルドみたいなものの潜在的可能性があるのではという気もしました。人を笑わせることをつきつめていくと、人を狂わせることに近付いていくのかもしれません。その前に自分で自分が狂わされるのかもしれませんが。

 

(原牧生)

夕方帰宅してみると、名絵画探偵亜目村ケン 

 展覧会などみにいって思ったことを書きたいと思います。

 

夕方帰宅してみると

2016.1.16-2.7 milkyeast

Sabbatical Company (杉浦藍、益永梢子、箕輪亜希子、渡辺泰子)

 

 会場で、カフカの作品『夕方帰宅してみると』を読めるようになっています。それは、独特な個人による小説であり、かつ、民話的想像力のような物語性がある大人の童話みたいでもあります。かぐや姫や桃太郎の話のように、不思議な誕生と出会ってしまい、育てることになります。そういう昔話では、山や川など外部の自然で異質なものと出会い、老夫婦のような共同性があって、それと擬似親子関係をつくります。カフカの作品では、異質なものは自室の内部に現われます。話はただ一人の男性の一人称の語りになっています。両者の関係は契約で、それを文言にして字で書いておくというのが、いかにもカフカらしく感じられます。しかし一方、約束をするというのは昔話にもよくあるパタンです。カフカはメルヒェン的なものを不条理性のある小説へつくりかえているように思えてきます。私が読んでとらえられたのは、最後に両腕を広げて飛ぶ練習をしている場面です。童話的ナンセンス・おかしな人のようでもあり、あるいは、こうのとり風の鳥の話は全部この人の妄想で、部屋で一人で飛ぶ練習をしているのかもしれないとも思われ、おもしろこわいですね。

 このグループ展には、カフカのこの作品をそれぞれが読んで、それへの応答といいますかあるいはそれによる触発などを作品化したものが出ています。こういうふうに読んだのか、と思えます。この企画は、この作品から読み取れるようなことへの関心が先にあってこの作品が選ばれた(あるいは見つけられた)のか、そうでないとしたらどうしてこの小説なのか、成り立ちが不思議です。

 それにしても、自分(観客)も読んで、この作品を読める(状況がある)ことじたい価値があると思いました。読むと前提を共有して展示の場に入れる感じになります。読むという経験を作品化するという方向性も感じられましたし、カフカというたんに個人的でない言葉を書いた人が書いたものが、そういう場を可能にしたといえるかと思いました。

 

Whales公演 名絵画探偵 亜目村ケンepisode1 ~パンは小麦の香り~

2016.2.10-11 blanClass

出演 外島貴幸、河口遥、吉田正幸 脚本・演出 高橋永二郎

 

 前回、アート系人材による音楽イベントを取り上げましたが、今回は演劇公演です。脚本・俳優、演出・演技、それぞれにそれゆえの突っ込みどころがあると思うのですが、それがどこまで意識的にやってるのかよく分からない、ようにみえる(みせる)センスが感じられます。例えば、公演タイトルに付いている、~パンは小麦の香り~という言葉など、どこかくすぐったいものがあると思います。これは、おしゃれなキャッチコピーなのか、おしゃれなキャッチコピーのにせものなのか、おしゃれなキャッチコピーのにせものをしていることがおしゃれであるキャッチコピーなのか、どうでもいいのか。 私にとっては、この言葉は実感的というより論理的です(小麦の香りをかぐことはほとんどなくてそれを知らないので)。これはいっけん論理的に当たり前のことをあえていっているようにみえます。が、本当にそうでしょうか。パンは小麦の香り、というのは。何かおかしいというかへんではないでしょうか。似たような例、ワインはぶどうの香り、チーズは牛乳の香り、おにぎりは稲の香り、等々を考えていくと。 こういうふうな目立たないずれ、意識の偏りみたいなものが、脚本・俳優、演出・演技、に感じられるのでした。

 劇中、ドクターブレインというのが出てくるのですが、これを全ての絵画がアーカイブされた人工知能とすると、いまどきのSFにみえてきます。しかしそうしないで、割と素朴な映像空間と手作り装置の演劇空間にもってきているのがいいのだろうと思いました。タイムマシンによって、過去と現在に因果関係はない、未来はひとつでない、といった洞察もえられます。

 

(原牧生)

ピョトル・ボサツキ「自明の物事」(第8回恵比寿映像祭 動いている庭)

 白を基調とする画面にボルトやピンチや紐やグルーガンといった、比較的身近な道具を使ったコマ撮りアニメーションが展開される。ナレーションは作家本人。2013年作、10分。 

 

 作家のトークを聞くことができた。展示されてはいない過去作を合わせて特徴を抽出するなら、「定められた領域でルールに従って変容する内部と、移動する領域の外枠」ということになるだろう。外枠と内側の特徴は、それぞれこんなところだろうか。

  1. 外枠の移動(変容)はある視点からは観測できない。
  2. 内部の変容(移動)はある地点で知覚可能な意味を形成する(が、それを受け取れるかどうかは観る者の力量に委ねられている)

 

 ナレーションはオリジナルの文章で、執筆に半年を要したという。曰く、「どのような状況にも当てはまる」「〈どのような立場から〉〈何のために〉書いたかがわからない」内容で、「いかなる政治的連想をも伴わない」普遍性を志向したものだそうだ。彼のこの言葉に偽りがないとして、私にはむしろ論理的な純粋性を志向したテクストであるがゆえに、政治的未解決問題に直結してしまったように思えた。しかし仮にそうであっても、それは決して居心地の悪いものではない。論理的矛盾があるからこそ政治的課題が生じるのであって、その逆ではないからだ。

 

20日(土)までです。珍しくレビューが間に合った。

(佐々木つばさ)

 

www.yebizo.com

オノ・ヨーコ「私の窓から」

展覧会全体

 現代美術館での個展は二度目。すでに前回が代表作を集めた大規模な個展だったので、いったいどうしたらこれだけの空間を使った展示が再び成立するのだろうと不思議に思っていましたが、作家の出身地東京との繋がりをキーワードに資料的な要素を前面に押し出すことで、前回展示された作品でも違った側面が見えてくるようにするという工夫がなされていました。

 

私の窓から セーラム1692

 表題作『私の窓から』(2002)は計16枚の写真を用いた4つの連作で構成されています。壁一面を一つのタイトルに充てた独立性の高い空間で、時計回りに連続で鑑賞することを念頭に設計されているようでした。強制こそされないものの、鑑賞における正当な順序、いわば映像におけるタイムラインの存在が仄めかされているということでしょう。

 一つ目の壁面、『私の窓から セーラム1692』は三枚の写真パネルでできています。いずれも①開け放たれた窓、②セーラム魔女裁判、③作家自身の幼少時代を映した肖像写真、という三つの画像が重ね合わされたもので、三枚ともに同一の構図が採用されています。

 ①の「開け放たれた窓」はどれもはっきりした濃度で、遠くから眺めてもすぐに部屋の中から見た窓及びそこから見える景色であるということがわかりますが、対照的に②「セーラム魔女裁判」はモノクロ加工されている上、三枚全てが薄く出力されており、ともするとパネル全体にかかった靄かシミ、ノイズなどのエフェクトに見えてしまうといった塩梅で、よくよく目を凝らして見ないと裁判の喧騒を描いたと思しき絵画の存在を認めることはできません(事実、展覧会ポスターに使われていたのはこの作品ですが、私は実作を目にするまでこの靄を解読しようとは思いませんでした)。

 さらに③「作家自身の幼少期」は左から順に一枚ずつ濃度を濃くしてあります。複雑な構図の②とは異なり、おかっぱ頭にセーラー服の子供の姿を捉えることは難しくありません。もっとも濃度の低い一枚目の写真から窓を見上げる愛らしい少女の存在に着目しつつ、未だ透過する影を持った二枚目を通り過ぎ、三枚目の前に立った時、あることに気づきます。

 おかっぱ頭の少女と「セーラムの魔女」は、目を合わせている。ここがどこかもわからない時間の中で、互いに目配せしあっているのです。『イエス、アイム・ア・ウィッチ、トゥー』とは間もなく発売されるオノ・ヨーコ氏のアルバムタイトルですが、氏が「魔女」との悪口を転倒し肯定的に受け入れたとき(「yes」)、この時間も空間も超えたコンタクトは成立したのかもしれません。

 

「イマジン」の終わり

 『私の窓から』シリーズはさらに三作続きます。そこには笑顔のジョン・レノンと二人で囲む幸せそうな食卓や、彼が凶弾に倒れたときにかけていたために左目部分が血に染まった眼鏡、きっかり半分だけ水が注がれたコップが映り込んでいます(半分のglassとglass)。窓は次第に閉じられて行き、あるいは「日の出」と題されているのにも関わらず、画面は徐々に暗くなって行きます。

 

www.youtube.com

 オノ・ヨーコと窓の組み合わせで思い起こされるのは『イマジン』のPVですが、この映像における彼女の役どころといったら、暗くて真っ白な部屋にある四つの窓を開けていくこと、それだけでした。対して『私の窓から』は大きさこそ違えど『イマジン』のそれと同じような作りの窓を閉じていくホワイトキューブの写真作品であり、この点から見ても彼女がこれを『イマジン』の続きとして構想していたとしてもおかしくはありません。

  それでは仮に、「イマジン」が閉じられたとしましょう。イメージが終わった後には、何が残るのでしょう? 想像が実現しなかったことへの失望でしょうか? そうではないはずです。ほとんど設計とも呼べるほどに十全な空想の後には、「行動すること」、言ってみれば実制作の工程が残されているからです。

 

(佐々木つばさ)

ポリ画報 Vol.3 ミーティング

今日はポリ画報 Vol.3 制作のミーティングでした。

各人の作品もそろい、製本に向けて進んでいます。

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おやつはバナナチップとドーナツでした。

 

完成は3月初旬頃の予定です!

 

辻可愛

ロベール・ブレッソン「田舎司祭の日記」

あらすじ

 新米司祭が赴任地の人間関係でぎくしゃくし、ウジウジする話。ということになるでしょう。描かれたものだけを見るならば。

 幾度か住人らが司祭に悪意を持っているらしいということが語られますが、理由ははっきりせず、また何度かきな臭い出来事があるものの、事件に進展するわけでもありません。これ見よがしな善人もいなければ憎むべき大悪党も出ては来ず、繊細な司祭は住人たちの挙動にいちいち逡巡しながら独り健康上の不安を抱えて過ごしています。

 観客は日々の間に挟み込まれる手、筆記する手のカットによって、ひっきりなしのナレーションが司祭の手稿をそのまま読み上げているものであるようだということを了解するでしょう。

 

 

日常という編集行為

 陰気なだけじゃなく地味な話ですが、この題材ならやむをえません。というのも、真面目すぎる主人公の控えめな態度が全編に渡って作用しているのみならず、物語の枠を形作る日記、そもそもこの日記をつけるという習慣自体が、記述対象を1日、ないし数日という馴染み深い時間の単位で切り取られた「出来事」へと収斂させ、「日常」と呼ばれる状態を模範的に再編していく営みに他ならないからです。映画が語り部として手記を選んでいる以上、司祭が書かなかったことは語られないことになります。

 しかし注意しなければならないのは、この『田舎司祭の日記』が日記の朗読ではなく、映画であり、作品であるという点です。後半に向かうにつれ、スクリーンは司祭の書き損じ、黒く塗りつぶされた行やページを破りとる手をも、共に映し出していくようになります。そこには決して読み上げられることのない日々、いわば司祭自身によって消去された物語があったのです。冒頭のナレーションに戻りましょう。 

「日常の出来事を率直に記しても差し支えはなかろう

 それが取るに足らぬ秘密なら」

 

 

空白

 日記によれば、司祭は職務における忠実さのためなら濡れ衣を被ることすらも厭わなかったようです。それほど信仰に熱心だった司祭に怖れるものがあるとすれば、それは自らの死である以上に、自身を田舎司祭以外のものに変容させてしまう何か−−−例えば彼が「聖人たちの試練」と呼んだようなもの、つまり日記が作出するはずの日常とは正反対のもの−−−だったのではないでしょうか。病状の悪化を理由に説明される幻覚的体験の直前から、塗りつぶされ、引き千切られる日々が増えていく。このタイミングは偶然でしょうか。またこの時少女セラフィータに聖母の幻を見ながら介抱された場所が、〈家畜小屋〉の藁の上であったという点はどうでしょう。あるいは胃弱の彼が赴任以来ようやく口にしてきたものが、〈ワイン〉に浸した〈パン〉、すなわち聖体そのものであった点は? さらにかつてセラフィータに教師として投げかけた質問が、まさに〈聖体拝領〉についてであったことは?

 「それがどうした、全ては神の思し召しだ。」

 今際の際にある司祭は何に語りかけたのでしょう。

 

 

ベルナノスの手紙

 …と、ここまで書いたところで、原作者ジョルジュ・ベルナノスの手紙を見つけました。

完成した芸術作品は私たちに確信と陶酔を惜しみなく与えます。しかし、私たちに示唆を与えてくれるのは、欠落や削除のある草稿です…(中略)…お望みなら、あれは聖人についてのまだ未定形の草稿だと思ってください。

http://repository.cc.sophia.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/4477/1/200000020567_000030000_69.pdf

 小説『田舎司祭の日記』もこの言葉の通りに書かれていたのだとすると、ブレッソンの作業はベルナノス作品の読解を通してその肝要なアイディアを拝受し、自らの作中に取り込んで骨肉化させていくことだったと言えるでしょう。映像というメディアを用いることで、テクストにはテクストとしての欠落を保たせながら、なおかつ完成された作品を提示する。以降の作中にもその秘かな試行の跡を見ることができます。

 『田舎司祭の日記』は饒舌にして寡黙、また寡黙であるがゆえにより多くを語りうる作品なのです。

 

(佐々木つばさ)

オノ・ヨーコ 私の窓から 、 NEW YEAR MUSIC,MONKEY MUSIC!!

 展覧会やイベントへ行って思ったことなど書きたいと思います。

 

オノ・ヨーコ 私の窓から

東京都現代美術館 2015.11.8-2016.2.14

 

 『グレープフルーツ』のようなインストラクションのアートを見直したいと思い、本展に行ったのですが、この人の全体を見直すことになりました。詩でありコンセプチュアル・アートでもありイベント(前衛芸術としての)でもあるようなアート。生をつくり直すアートなのだと思いました。

 『グレープフルーツ』(1964)は本のかたちのものですが、今回は一枚ずつになっているのが展示されていて、文字ばかりのものが並んでいる作品空間に、こういうやり方もありかというような驚きをちょっと感じました。

 オノ・ヨーコさんはボイスパフォーマンスの先駆者といえると思いますが、『Fly』(1970)という16mmフィルム作品のサウンドは、ジョン・レノンとの共作で、ふるえのようなうなりのようなとらえがたいリズムの声の持続があり、映像と合っていて、聴けてよかったといえるものでした。

 また、『Cut Piece』(1965)というイベントの記録映像は割と観客の眼を集めていて、何か供犠の儀式みたいなまじめすぎてアブナイ人の雰囲気がありました。

 オノさんは疎外や無理解にさらされたり悪口を言われることがとても多かったにも関わらず、それをクリエイティブにポジティブに転化あるいは昇華されてきました。そのことを可能にした力を詩的想像力というのでしょうか。

 

NEW YEAR MUSIC,MONKEY MUSIC!!

blanClass 2016.1.16

うたにならないうたおどりにならないおどり、集中力、松尾宇人、川久保ジョイ、

Hideaki Umezawa+Yoichi Kmamimura、tnwh、吉濱翔、ファンテン、真美鳥、CAMP

 

 音楽フェスといっても出演者それぞれやってることが違い、その違いぶりが印象的な企画でした。多次元的というか。いまありうる音楽のあり方のサンプルであるような。

 うたにならないうたおどりにならないおどりのパフォーマンスは,声の即興という自分の関心から興味がひかれました。言葉の即興は自分にとっては難しく、世の中には詩を即興する人もいますがよくできるなと思います。彼らは路上みたいなオープンなところでやっているらしく、それも特長です。

 tnwhは、フルメンバーでない二人編成で、マイクやアンプを使わずに静かに聴かせる演奏でした。例えば、ドラムのパートを代わりに手を叩いて演奏した曲があったのですが、それによって曲の構造がみえてきて、間の取り方というかずらしと重ね合わせ、ほとんどそれだけでできていることがよく感じられたり、など、あらたな発見がありました。

 真美鳥というバンドの演奏は、あえて聴かせないというか聴かれなくてもいいというか、音量だけでなく、そういう姿勢が感じられました。そしてそれがそういうものとしてみられているということが成り立っています。それは私にとっては不思議とも思えるのですが、でも、これからの時世、表現規制、検閲、自粛圧力など強まっていくかもしれないと思うと、例えばこんなふうな、何かいってるけど何をいってるか分からないけど人が集まってきいている、そういうものには、取り締まりようのない抵抗手段みたいなものへのヒントがあるような気もしました。

 集中力というグループのパフォーマンスは、私の観客としての集中力がゆるんでいる間に行われたような印象で、このグループだけでなく全体的に感じたことですが、カタルシスをもとめないとかディスコミュニケーションといったポイントを考えさせられます。

 一方、松尾宇人さんは、観客参加型の設定にしたり、また、観客との関係性じたいをパフォーマンスにするような面がありました。

 また一方、川久保ジョイさんのやり方は、本人は来ないでそこにいる人にインストラクションを任せる、作品を自立させて作者はパフォーマーにならない、というものでした。

 非決定的な立場(非決定性)は、Hideki Umezawa+Yoichi Kamimuraさんたちが氷が溶ける音をマイクで拾っていたところにもいえます。音楽のパフォーマンスでも作曲や演奏とは違う、物が自然に変化しながら出している音を聴けるようにする、というものでした。

 吉濱翔さんの場合は、窓が開けられて外の音(環境音)が一緒に聴こえたりしました。聴く・聴こえる、能動と受動があいまいにされるようでした。

 ファンテンは歌詞というか言葉のパフォーマンスに個性があると思いました。

 イベントとしてはCAMPのもちつきが新年企画らしさを盛り上げました。私ももちつきをさせてもらえばよかったというのがちょっと心残りです。

 音楽についていろいろポイントがあるフェスでした。オノ・ヨーコさんもアート系で音楽やってる人だと思うとビジョンが広がるような気がします。

 

(原牧生)