ポリ画報通信

「ポリ画報」の活動、関連情報、ノート

2月(受け手の経験をつくるとは)

マクドナルド放送大学 (MISA SHIN GALLERY)

高山明(PortB)

 

 高山さん・PortBは、みる側の経験として演劇をとらえたことによって、やる側とみる側という一方向のパタンから転回したと思える。演者が演じることをつくるより、観客の経験(行動や認識など)をつくる、組織する、演出する、ことになっている。いわゆる観客参加をこえて、直接行動に近付く。ブレヒトの教育劇(教材劇)の可能性をひろったといえるかもしれない。こちら側とあちら側という境界、自分という境界をもつれさせるような経験。広い意味での教育に近付いているのだろうか。自分が変化して世界との関係が変化するというような。ソーシャル・エンゲージド・アートみたいな文脈にはまりすぎない方がいいのだろうと思えた。

 

目撃者たち (blanClass)

地主麻衣子+カニエ・ナハ

 

 地主さんは言葉に対する問題意識があるようで、今回は詩人のカニエ・ナハさんと交互に朗読するという試みをされた。言葉は自分を自由にするが不自由にするともいえる。アフタートークでは、政治的な意見、指向(あるいは嗜好?)は議論では変わりにくい、むしろ逆効果、という例など話されていた。交互の朗読は、ダイアローグではないがモノローグでもない、やり取り性のあるかたちになっていた。ゆるい対話のような関係性のある言葉を聴く場だったのかもしれない。会場には椅子のほかマットや座布団が置かれ、観客は座ったり寝そべったり歩き回ったりできる。照明は暗めで、リラックスできるようになっている。そういう演出は、やろうとする内容に合っていたと思う。

 

山と群衆(大観とレニ)/四つの検討 (blanClass)

眞島竜男

 

 近代国家・権力(者)との関係、ポピュラリティ・世俗的力…そういうものがある芸術(家)、という問題意識。歴史の見直しでもあり、今日のアクチュアリティへのとらえ返しでもある。二人をキャラクターにした会話のテキストが台本のようにあって、会話の内容に批評性が入っている。ストレートには分かりにくい。グーグル翻訳で文体が変換されているだけでなく、シチュエーション・コメディということで、もともと文脈の変換を交えたテキストだったのだろう。テーマの物語化を分裂させていくような、実践的なやり方だったと思う。文字テキスト、物と身体の動き、(タッカーで描く)絵画、映像(映画)など要素が多い。文字テキストはゲーム画面のイメージでもある。観客にとっては、読むということの比重が割と大きいかもしれない。翻訳が、割り切れないものを生じさせていく。日本語と英語と読むことも翻訳だが、パフォーマンスを見ることもテキストの翻訳であるように思えてくる。

 

イサム・ノグチと長谷川三郎-変わるものと変わらざるもの (横浜美術館

 

 イサム・ノグチと長谷川三郎が1950年代に出会い、それから日本の伝統を見出して意識した抽象芸術の創造へ向かった、というストーリーの展示。50年代のモダニズムの見直し。伝統的なものと日本的なもの、歴史的な同一性と地理的な同一性、これらはそれぞれ別々なものなのだろう。それらが組み合わされてストーリーになっていくのかもしれない。

 

既存の展示等を改変 : RECALLS (TALION  GALLERY)

X、成相肇、橋本聡

 

 開催中の五つの展覧会を、五つのオリンピック大会と、キャッチフレーズの言葉の類似性で結び付け、解釈した見方を提示。イケアの製品と企業理念への注釈を提示。二つの改変が展示されていた。東京オリンピックという具体的なイベントを前に、展覧会がオリンピックに巻き込まれることに対して、架空の共犯関係をパロディとして見せている。イケアの方は、パロディやアイロニーというより、比較的肯定的に扱っている感じがした。説明文中心の展示ともいえるが、問題が分かりやすいアクションなので生々しいとも思う。

 

(原牧生)