ポリ画報通信

「ポリ画報」の活動、関連情報、ノート

3月メモ

あなんじゅぱすライブ、ゲスト藤井貞和ネイキッドロフト

 藤井さんが、自分が書いているのは「現代詩」だと話していたのが印象的だった。短歌のように続いているかたちがあるものではなく、いつ書けなくなるか分からない、いつでも書けなくなりうるものとしての現代詩。それはそのつど発明しているようなものではないだろうか。短歌はうたといわれるが、(う/た)は、現代詩がうたでありうるか、ありうるとしたらどのようなうたなのか探っているような表記だと思う。あなんじゅぱすは、コロンブスの卵的に現代詩をうたっているように思えた。

 

マイク・ケリー展、ワタリウム美術館

 現代のフォーク・ロアみたいというか、フォーク・ロア的なものがポップであるというような、物語の力があった。アメリカってこんな感じなのだろうか、と思わせるような。

 個人の記憶・妄想・トラウマなどかもしれないが、素材はドキュメントだ。その経験は、学校や地域コミュニティでのイベント、いわば行事の儀式性みたいなもの、宗教的土壌がつよく感じられる共同体性の抑圧感であったりする。

 

橘上NO TEXT-本を読まない朗読会、ゲストカゲヤマ気象台、BUoY

 アフタートークで素朴という言葉を強調していたが、彼のいう素朴とは何だろう。文脈やクオリティで認められるようなものではないということだろうか。練習をしない、というポリシー(?)とも関わる。演技しない(演技にならないようにしている)即興。

 

tnwh ライブ、おんがくのじかん

 「俺は仕事が嫌い」という曲は、詞の書き方がよかったと思う。これこれの仕事何々の仕事という反復は、生活経験のディテールではなく、私の経験に依存していない、経験から自律した言葉の操作だ。形式感があるというか、仕事が嫌いという断定が、ほとんど理念的に感じられる。仕事が嫌いな俺とは誰でもあるのかもしれない、例えば聴いている人、そこにインパーソナルな可能性がある。

 

(原牧生)

2月メモ

世界に対する知と信 TALION GALLERY 駒込倉庫

 正面切ったタイトルでやや一般論的な感じもするけれどストレートだ。

 例えば、高柳恵里さんの作品に、紙や毛布や小さな電卓や空き缶が、いっけんただ置いてあるように見え、よく見るとそれらが底面の細工によって少しだけ浮かせてあることが分かる、というものがあった。それらを、目立たないがちょっと浮いている物として見ていると、周りから切り離されたあるいは独立した、単独の物としての在り様に見えてくる。そしてそれは、本当はそうではないのだ。

 そういういわば宙吊り状態にすること、それが答えなのか?

予兆 名絵画探偵3 blanClass  第10回恵比寿映像祭 東京都写真美術館ほか

 Whales+けのび、協働作だが、それぞれがそれぞれのまま重ねられたような感じだった。出演者の一人は、“起きていることを見られないでいるのを話す”という一種のインストラクションを実演する。名絵画探偵は、『Clairvoyance(透視)』という絵について語ったりする。今年の恵比寿映像祭のテーマは「インヴィジブル」だが、意外とテーマが近いのではないかという気もした。「インヴィジブル」は、見ることに対する知と信、といえる問題だったかもしれない。『予兆 名絵画探偵3』は、見ることは言葉にすることだ、というテーゼのようなものを考えさせる。意識しなくても言葉にしている、ということ。

絵画の現在 府中市美術館

 イメージを描いた作品が多いなかで、諏訪未知さんと白井美穂さんは違って、大まかにいえば考えを描いている。考えの説明というより考えの実践あるいは考えの具体化であろうとするのだと思う。それは言葉によらないプロセスといえるだろうか?

 ネアンデルタール人が描いたという絵が発見されたそうで、その映像を見た。ネアンデルタール人には言語がなかったとされている。あの絵は、何かのイメージなのか何かのしるしなのか、模様みたいなものなのか、何なのだろう。

 

(原牧生)

1月メモ

 practice、affair、などとよばれた堀浩哉さんの’70年代の試行を振り返る機会があった(金子智太郎・畠中実、日本美術サウンドアーカイヴ、1月7日三鷹SCOOL)。

 学生の頃古本屋で買った「美術手帖」のバックナンバーで写真など目にしたことがあり、ポイエーシスではなくプラクティス、ということは印象に残っていた。今回、説明の文章も配布され、何をしていたのかを知ることができてよかった。会場に彦坂尚嘉さんもおられて発言されたりして、何となく時代性を感じることもできた。

 しかし、その当時においては説明するまでもない状況や、問題機制、どうしてこうしなければならないのか・何をやろうとしているのかというようなことは、今では過去のものになっている。

 問題は問題でなくなってしまったのだろうか。

 これらをパフォーマンスとよぶことは後付けで、パフォーマンスという制度に回収しているようにも思える。

 闘争を持続するために何をすれば闘争の持続になるのか、というような問題は、過去化している。

 物語を信用しない、意味解体的作業。

 日常性のなか、還元的、退屈な闘争。

 個人でできること、それは(ものとコンセプトと)言語行為に関わっている。

 

(原牧生)

年末メモ

 今年を振り返ってみると、それ自体時間について考えてしまうことになるが、自分個人にとっては、ディヴィッド・トゥープさんのワークショップに参加したことは重要だったかもしれない。広い意味での即興演奏。

 即興は、いま・ここ、での行為と思っていたが、今とは何なのか。例えば、できるだけ短い音を出そうとしてみる。その不可能な瞬間が今だろうか。あるいは、今いる場所に場所の記憶があれば、その記憶の時間も今だろうか。

 精神分析でいう転移のような時間経験。そういえばどちらも、やっている時間をセッションとよんでいる。J.ラカンは分析治療の時間枠設定にとらわれないセッションを実践し理論付けしていた。それを読むと、何だか分からないが、即興の時間と関係あるように思える。どうして終わる(切れる)のか、というのもそうだが、緊張というか切迫がもたらされている時間。小さくてもそこに突破がある。

 即興は、受け・レスポンスとしてやる方が、やりやすく面白くなりやすいと思う。お題に対して応えるとか、まず他者なり状況なり何かがあって、それについて、あるいはそれに触発されて、何かいったりしたりする。関係性と単独性を両立させる。

 一方、先立つものを即興することは、たいてい慎重に探り出される。慎重に思い切った無意味さの提示。オチのない時間を生きる。

 今年は「詩の朗読会」があってよかった。詩にはひかれているが、詩一般を愛読しているとはいえない。詩に何をもとめているのだろう。ないものねだりかも。それを、コンクリート・ポエトリー(の可能性)に投影している。それでも、自分で選んだ詩を朗読している時間、間接的にあるいは変換されてだが、それはないわけではないのだろうと思う。詩のよみ出しと即興のきっかけは似ているかもしれないし。

 

(原牧生)

勉強会その後

 7月22日に第4回(発表川原さん)、8月26日に第5回(発表辻さん)の勉強会を行ないました。第4回では、Ⅵ章「三位一体」が取り上げられ、事前にていねいな要約とリンクが付いたレジュメがありました。発表はなかでも記憶術が着目されていました。時間や空間を経験するとはどういうことかという問題として。

 またそれに関して、六義園についての四谷アートステュディウム講義録(岡﨑ゼミ)も参照されました。六義園の問題(課題)は、庭園内をどのような経路でたどるか、庭園経験をどのように組織するかを考えることだったと思います。それは六義園という庭園のいわば設計思想と密接に関わることでもありました。

 タブラエでは、6/24・25 7/1・2に「小さな家が見る『Vampyr』」という上映会を行なっていますが、私個人的には、そこに六義園の問題と近いものもあったような気がしました。しかし、企画者当人の川原さんや辻さんから上映会の話をきくと、そういうものとはまた別のものだったかもしれません。

 一般に上映会は、たいてい、上映会自体の形式より、何を観るか(観せるか)という内容の企画としてあると思います。映画は始めから終わりまで上映時間があり、観客はその時間中席に座ってあまり動かないで前をみている、という感じです。タブラエでの試みは、そういう身体の体制化に対して、たんなるマルチスクリーンという以上に、建築(的要素)を介在させることによって、映像と身体の関係(時空間的な)を観客に再組織させるものだったのではないかと、自分としては思いました。

 記憶術は、結局よく分かっていませんが、そういう庭園や建築で経験される(経験できる)ことを、頭の中だけでやろうとする術(思考システム)なのではないかと思えてきます。

 第5回では、「アンリ・マティス」(Ⅰ章)が取り上げられ、特に壁画的な空間が扱われました。例として『スイミング・プール』という大きな切り絵の作品を図版や画像で見ながら話し合ったりしました。また、ピラネージの版画の内部視点的な建築空間も参考にされました。問題としてあったのは、分裂的な空間、あるいは、経験としての分裂、ということだったように私としては思います。

 分裂していればいいということではないのでむしろ分裂の限界を考えるべきという話もありました。それは多分、どこかで止まるというより分裂を高次にのりこえることを感じさせる(予感させる)動的な経験なのではないか、そういう力(のはたらき)といえるのではないかと(私には)思えました。

 それから、4回目に出た話題として、ネット上で服の写真を見て柄の色が何色に見えるか人によって言うことが違う、というトピックがありました。勉強会参加者どうしでも一致せず、面白いことだと思いました。実物と写真の違い、色の補正といった技術的なことでもあるかもしれませんが、そもそも他人の経験と自分の経験と較べようがあるのか、という感じになってきます。

 この場合、違いは何なのか考えてみると、①感覚・知覚レベル、②言語レベル、とがあると思います。①は、光の感受性みたいな生理的感覚の違い、ここでは地の色と柄の色との組み合わせ(差異)として各々の色が現象していますから、感じ分けて感じる知覚の違い。②は、どう見えているかをどう言うか、いわば個人的な文化の違い。色を言葉(名称)で言おうとすると、大ざっぱにならざるをえないと思います。そのため、これを何色というか、ちょっとした判断の違いでも、大きく違うかのようにあらわれると思います。実際に起こったことはどちらなのか、何か実験を工夫すれば分かるかもしれませんが、(自分たちの場合は)何となく②の方なのではないかという気もしました。

 ところで、この場合、①は経験自体、②は経験の認識、なのでしょうか。そういえるような気もしないでもないですが、私としては、そうとらない考え方に興味があります。言葉にしない・していない・できないことと言葉にする・した・できることと二つに分けるとらえ方とは別のとらえ方、別の言語観があるのではないかと。

 いちおう予定していた5回の勉強会を終了しました。『経験の条件』を読んで発表したり話し合ったりするのはやはりそれなりに難しいことでしたが、あらためて大事なところを見直すことができました。

 今後に向けて汲み取ったことは秘密です。というと冗談のようですが… 例えば、社会性や公共性や政治性が「秘密」にはあると思います。

(原牧生)

『残像』ほか

 先日、アンジェイ・ワイダ監督の遺作『残像』を観ました(岩波ホール)。主人公の芸術家は、国のイデオロギー的な統制が芸術にも及んできたことに抵抗し、そのために社会的な権利を奪われて、困窮のうちに病死します。救いのない話だったといえると思います。話は第二次大戦後のポーランドでのことですが、ひとごととは思えない、アクチュアリティがあると思います。

 以前公開された『沈黙』(マーティン・スコセッシ監督)は、私は観ていませんが、日本のキリシタン弾圧を扱っていて、近いテーマがあったのではないかと思います。どちらの映画でも、国家的な強制力は従わない個人を孤立させて追いつめることが示されていたと思います。また、権力の暴力に対する個人の信念や信仰、というようなとらえ方だけでは、実存的とはいえるかもしれませんが、先行きがくらい、とも思えてきます。

 “イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。(ヨハネによる福音書2.23-25、新共同訳)”

 全体に対する個人の選択といった問題について、イエスの時代にも人は直面していたのだと思います。この個所は、この時信じた人々も結局後にはイエスを見放すので、それを見越して先取りした書き方なのかとも思えます。しかしそれでは、イエスは、人々をシニカルにみていたようになってしまいます。これを書いた人は、あたかもイエスの本心を知っているかのように書いていますが、そんなはずはないわけで、どうしてこういうことを書けたのかおかしいのではないかとも思えます。

 せっかく信じたのに信用されてないということは、神と人間の関係はそういうものだということでしょうか。この個所は、人間の都合には合わない、分かりやすい教訓にもならないことが語られていると思います。ただ、こういうふうにいわれると逆に、絶望ということがナンセンスにみえてくるかもしれないという気もします。

 

(原牧生)

勉強会から

勉強会は、4月22日に第2回、5月13日に第3回を行ないました。

第2回の発表者は、佐々木つばささん、第3回の発表者は、外島貴幸さん、でした。

ここで私がそれぞれの話を要約するようなことはしませんが、二人共それぞれのアーティストらしさを感じさせる話だったと思います。制作のための勉強会という趣旨に近付きました。

 

ことばは誰のものか、

このことばは誰のものか、

このことばの使い方は誰のものか、

仮に自分の考えは自分のものだとして、自分の考えを語ることばは誰のものか、

自分の感覚、自分の感情を語ることばは、

そう思っていくと、上記についての答え方は複数あると思いますが、人は、自分でないものに分裂することから自分を防衛するために、主体感を強めて、自分のことば(?)を語っていると思えます。それが過剰防衛ということにもなります。

ことばの他者性、言語の外部性、をどう扱うか、それは、ことばの用法、語り方の問題、あるいは詩の問題といえるかもしれません。強い主体になることに対して、弱い主体、というより詩的な主体(詩人的とはちがう)みたいなものになる、といったことの可能性を考えたくなります。

 

こういう話を勉強会でしたわけではありませんが、こういうことをその後で考えるような話をしたりしました。ことばと主体の間にメディアが介在して問題は社会化します。ネット・SNS上で、あげ足取りやら分かり合えなさやら、偏ったことばが分裂生成します。どうして人はそこに引きずり込まれるのか、そういうことに関わるようにも思えます。

 

(原牧生)