ポリ画報通信

「ポリ画報」の活動、関連情報、ノート

12月(詩の機会)

Fushigi  N°5 の大追跡  ( Café&Bar Kichi )

橘上、永澤康太

 

 詩を読むことは詩を経験することになるが、必ずしもそうなるとは限らない。詩を経験するとは、詩の機会に恵まれるというようなことなのだろう。

 今回このユニットは二人で、何をやるかを決めたうえでの即興のセッションだった。前半はそれが五つ。①「つまらない話」を交互にして突っ込みを入れ合う。②架空の答えの(ナンセンスのような)クイズ、その答えを当てようとするやりとり。③自由について交互に話す。まわりくどい喩え話のようであったりする。④しみる話、名言のように語られる話を交互にする。ひねられている。⑤推理バトル。相手を犯人に仕立て上げあう。後半は、壁に貼った大きな紙に、詩を一行ずつ二人で話しながら書いていく。これも即興だが書き直しはできる。

 演劇的といえるパフォーマンス。レトリックのようなロジックのような言葉の飛躍・推進力がスリリングだ。コントのように面白いともいえるが、言葉で真剣に遊ぶとでもいうようなことに詩を感じる。

 

ながさわ合唱団×カゲヤマ気象台『これからのことばたちへ』 ( Art Studio Dungeon )

カゲヤマ気象台(guest)、ながさわ合唱団(山田亮太、関口文子、カニエ・ナハ、永澤康太)

 

 詩を歌にしていく過程も、映像(カゲヤマ気象台)と実演でみることができた。楽譜に書くことはなく、一人がこう歌いたいというのを口ずさんで、他のメンバーは真似して斉唱にしていく。初めにメロディの完成形があるとは限らず、皆で確かめながら共同で作っているような面もある。主催の永澤さんだけでなくコアメンバーも継続しているので、まとまりがよくなっているのだと思う。また、会場は天井が低いコンクリ壁の地下室のようなところで、響きもよかったかもしれない。

 永澤さんの詩は少年期が黄金期という気持ちを感じるところもあり、以前は、歌としての詩に童謡的な感じもあったと思う。中原中也的ともいえたのかもしれないが。今では、ラップというスタイルに、私が思っていた以上に意識的で実践されているようだった。より多くの人への訴求力、言葉の活力など思うと、いわゆる現代詩はラップのカルチャーを無視できない。ラップと合唱という組み合わせはユニークだと思う。

 

坂田一男 捲土重来 (東京ステーションギャラリー

 

 絵画形式の内部で絵画形式の制約を超える。優れた絵画というのはそういうものかもしれないが。第二次大戦後のいわゆる現代美術以前の絵画に、現代美術とはこういうもの(だったはず)と思わされる。思考操作の写像というようなたくさんのデッサン類。それを一つの絵にする。思考操作とは、まずキュビスム(分析)とコンポジション(構成)だったと思うが、そこから進んで多次元的な絵画空間が探究されていたと思う。

 

詩の朗読会 年の瀬編  ( TABULAE )

  

 佐々木智子さん企画の「詩の朗読会」に参加した。参加者それぞれ自分が読みたい詩を持ち寄って順に読む。朗読会というと詩の書き手が自作を読むことが多いかもしれないが、ここでは他の人が書いたものから選んだものを読んだ。自分で書く人もいたかもしれないが、読み手の立場で好きな詩を朗読する集まりといえると思う。自分からは読まないような詩に出会うこともできるし、ちょっと感想を話し合ったりするのを聞くと、他の人達は自分よりずっとよく聞いていると思ったりもする。

 橘さんや永澤さん達は、いわゆる詩の朗読とは別のやり方で、詩としての言葉のパフォーマンスを実践している。そういうやり方に私も共感する。でもこういうオーソドックスな朗読会でも成り立つ、ということに詩への心強さのようなものを感じた。

 

(原牧生)