ポリ画報通信

「ポリ画報」の活動、関連情報、ノート

5月(夢の作業と俳句)

 睡眠中の夢を起床後ざっと記述して、それから夢を俳句形式でいいあらわすという試みを続けている。夢の全体をいおうとするのでなく、夢を思い出して考えて発見できたこと、いいかえればその夢をどう発見したかということを書く。その夢から何を取り出すか、と同時にそれを言い当てる言葉・言い方をみつけられるかどうか。俳句は、オーソドックスな俳句らしさというのはあるが、短い中でいろいろなことができる形式でもあると思う。

2019年

10月

14日   欠けていたパノラマ塗り絵の男の子

       微笑そのひとと名前が同じひと

       棚からストリートいってみるものか

15日   便器にうずくまるひと分裂うむ

       公園のトイレも掃除するところ

       モップ突っ張る横でやらされてる子

17日   自転車リレー自転車おくところなし

19日   動いてる音を聞かせる女の子

       本から滴る床を汚している

       夜の彼方大川橋のマックで

22日   あとではなくあっとで繰り返し今

24日   読み合わせ返らぬまま帰る仕度

25日   寒イカのびん詰め明晩寒いか

       昨日から下向き露出する切身

26日   船室そこは高校生ばかりで

27日   頭をなでうぬぼれさする手の平

28日   同じ人に見える人は同じ人

       同じひとに見えないひとは変わった

11月

 1日   かすらぬよう離れすべるように行く

 2日   されてると意志がゆるむと医師がいう

 3日   ひげそりできずつまんではさみで切る

       転覆しても大笑いそして消失

       すれ違ったところが後ろになって

 4日   先取りした権利かき混ぜて曇り

 5日   話したような聞こえているみたいな

       知らない人とひもは輪に結ぶかな

 6日   うつろな体をおおえる木の体

       傘をさしてトイレで雨にぬれても

 7日   白い器白い骨のプラモデル

       知りたい人らに食わせ物を食べて

 8日   棒になった浮浪児つま先立ちで

       人々とお金持ちの家に入る

 9日   亡くなった人が待つ部屋に訪れ

 9日   年が分からぬ顔の話を母と

10日   見られたくない出来事はその始末

11日   洗い物するときなのに亀が出る

12日   その人の物がここにある手にする

13日   パイプライン的パイプ標本的

14日   このまま埋まる中でもう目玉焼

       枝葉飾りのほこり払いここまで

15日   湯がさめぬうちお茶漬け出さなければ

16日   自作楽器で批判を歌うディラン

       いなかったところがいたあとのかたち

       けがれにふれることをずらしてほめる

17日   隠しきれずまた歯医者嫌でもない

18日   秋の赤は沈うつの色だそうだ

19日   伸び縮みねじれる糸の束楽器

20日   手が拾う人構文の切れ端に

21日   不在の部屋今ではないものがある

22日   夏の野を制するものは下を見よ

       食べていれば何でもおいしいと父

       絵とハングルの新聞を渡される

       たすけるように動かされ横切って

23日   古本漫画の家が祖母の家に

24日   よし分別その他はその他でよし

25日   消えたトイレがカゴとして現れる

27日   ふるえすぎ立てない人は座らせる

28日   考えていうつもりで考えない

29日   車窓から見る青空かすれている

30日   食べ残り口から出したものお菓子

2019年

12月

 2日   宙にずり上げてきて端のは重い

 3日   角度が速度それがかわって国土

 4日   ごみのようなもの捨てる前に食べる

 5日   曲がるところ見つける夜の小道を

       親きょうだい歌舞伎のような白塗り

 6日   自動車で階段下り外に出る

       本立ての本にやかんで湯を注ぐ

 7日   人と話しても答は出ないソロ

 8日   野菜を切ろうとしてクラスになって

       黄色い蝶の群れが頭上を過ぎる

 9日   表示してないパネルだけ光ってる

10日   資料をメモ次は米研ぐことから

       カーテン引き過ぎ反対側が開く

11日   一行朗読せよ二択で提示

       白い疑惑赤い疑惑いいかえて

13日   広がり生えるまつ毛の毛先を刈る

14日   どれでもいいといわれても取り返す

       空間うがつ道具が見つけられる

15日   横線で直されたテーマは何に

17日   今行くところで別に行ってるけど

19日   メロンパンひっくり返して焼くとか

       床下から公園で蟻がたかる

20日   焼魚いなくなる人いなくなり

       みかどうなじを干物でなでる儀式

21日   時間前長い金属管を吹く

22日   世界地図帳乱丁で落丁で

24日   空のひつに布老人たち眠る

25日   やわらかい丸太の上は立てなくて

       準備途中無人の会場をゆく

26日   ひとの名前を書いて字を確かめる

27日   ふすまはパーティションではない空間

28日   何もかもどろどろにおいしいおかゆ

30日   ガムテを縦に切って使いましょうか

       背中に仏像の絵働く窓辺

31日   言うはずのことを忘れる空に黒

       年末に誰かが捨てた木箱たち

       風もないのにたこ揚げ狭い空地

2020年

 1月

 4日   ひもかける手品の足引っ張る口

 5日   犬の夜ふんで引かれる線を見る

       こわされてクモは優美に枝を上る

 6日   新聞と新聞紙の束を捨てる

 7日   こぼしながら生卵吸う勢い

 8日   農場の仕事勧める文字の声

 9日   二つのメロディー二人で歌ってる

10日   止まらない車ブレーキ踏み続け

11日   書き手の名前だけかすんで読めない

       ひとの採血のとき感じる痛み

12日   窓がなく動き始めてドアが開く

       このあいだヴェイルだったかもしれない

13日   紅茶がはいっている四角い缶に

       姉らしくないが姉なんていたっけ

14日   追い抜いてレジの後ろに来てしまう

       もう終わりだがカレンダーを見直す

15日   跳びはね踏み鳴らす衝動近くで

18日   押し売りが子どもに代わり部屋消えて

20日   同窓生たちの今もうひとつの

22日   狭く迫る壁と壁にはさまれて

23日   貧しさによってお金を取り返す

24日   更新されない手帳の書きなぐり

       くちびるも退けられるひとを見る

25日   知らない歌のカラオケ少し歌う

       頼もうとして違う人の名で呼ぶ

26日   消しゴム手彫りそのひとの手がふれる

(続く)

 

(原牧生)

4月(俳句俳諧一行詩)

 区立図書館が急に休館になり、借りていた本が手許に残った。『現代俳句全集 五』(1978、立風書房)。阿部完市の俳句に興味があり、この本を借りていた。

 

   絵本の空(昭和37-43年) より

町への略図にある三日月と白いバス

他国見る絵本の空にぶら下り

起床してすぐに踊って風つくる

ローソクもってみんなはなれてゆきむほん

山々で指をかついでかくれんぼ

鞄に小枝つめて出かけるうれしい旅人

 

   にもつは絵馬(昭和44-48年) より

静かなうしろ紙の木紙の木の林

糸でくくられつくられているAの町

はるかへかえる小さい沼をくるくるまわし

すきとおるそこは太鼓をたたいてとおる

鶴と白人とおいよひゆーひゆーあらわれる

あおあおと何月何日あつまるか

木から落ちるしずかにびわ湖に落ちる

Aへやまみち葉と葉と花子ちりながら

やくそくのときところともしびいろ松原

 

 分かりやすい特徴として、ひらがなの多用、繰り返しの方法、五七五だけでない韻律感、などが目に付く。そして何か童話的な雰囲気とでもいうような軽さ、モダンな明るさが感じられる。言葉を使うことについての態度や姿勢からきているのだろうか。俳句というかたちでこんなことができるのかという驚き、このかたちの潜在力を感じる。

 

(原牧生)

3月(社会の不自由を生きる)

背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和  (練馬区立美術館)

 

 閉まっている美術館が多いなか津田青楓展を見に行った。背くとは上手い言葉を見つけたと思う。タイトル通りの内容で、展示資料によって時代的理解が深まる。

 まず、図案画、刺繍、装幀など、デザイン・工芸的な仕事がある。図案をしていたのは十代から二十代だ(刺繍は三十代)。図案画はモダンだったと思う。職人的な染織図案の技術と、小美術、レッサーアートという近代芸術的な感覚。この時代にこのような達成があったのだ。見ることができてよかった。

 青楓が日露戦争の体験を書いた『白樺』(1915年)。また、1920年代のポスター(「反軍国主義週間」「現行検閲制度反対週間」etc.)など歴史を語る資料が貴重だ。晴楓は、日本画を学び、さらに洋画を学び、渡仏もして二期会の創立メンバーになり、1920年代には四十代だが洋画家として有力だったようだ。自分の画塾も始めている。そういう時期に河上肇と交友したりもしていた。1931年には『ブルジョワ議会と民衆生活』という絵を描いてタイトルを変えさせられる。

 津田晴楓画塾の展覧会ポスターや塾生の絵の展示も興味深い。この頃は五十代だ。下郷羊雄は抽象画を描いている。北脇昇やオノサトトシノブの絵もある。教育者というだけでなく教育事業家としても手腕があったのかもしれない。

 『犠牲者』を描いた1933年、晴楓自身も取り調べを受ける。その当時の新聞記事(下郷羊雄スクラップブック)の展示もある。生々しい資料だ。プロレタリア芸術・文学などはどんどん弾圧され、晴楓は洋画をやめ画塾もやめて南画・文人画的な方向に向かい良寛にはまる。とても考えさせられる展開だ。南画や文人画に政治性がないとはいえない。むしろそういう伝統がある。だがそれも考えさせられるところだ。良寛は宗教者だが世俗を離れただけでない民衆性がある。そういうのは示唆的なのだろうと思う。晴楓は98歳まで生きた。本展の問題提起は実に今日的だと思う。

 

夜空文庫 - 『プロジェクト宮殿』によせて (路地と人)

 

 人が集まるという社会生活の基本が、今大きく制約されている。いつまで続くのか先が見えない。「路地と人」に「夜空文庫」が開かれたのは、お彼岸の連休の前、何かと中止や延期が多くなった時期だった。企画の紹介は「路地と人」のサイトに出ているが、閉塞感の状況に対して、変えるための提案をした。短期間でも意味あることだったと思う。

 場所を開く、文庫を開く、とはいえ、イベントと違って人を集めない。人が行けるところを開いたが人が集まらなくていい、という両義性がポイントだと思う。ツイートを見ると、無人の場所というイメージもあったようだ(企画者の原田さんがいるのは別として)。無人状態で本の貸出しもできるようになっていた。人類学でいう沈黙交易(共同体と共同体の境界)の場所を連想するようなところ。人が、想像や思考、物語的なものを贈与する、社会のなかの裂け目のようなトポス。架空の拠り所。

 二週間前がずっと前に思える。三月末現在ではこのような企画ですら難しい自粛の状況。新型コロナ以降の社会において、このような試み・発想には、別の現実を開く可能性があるような気がする。

 

(原牧生)

2月(タイトルされるもの/タイトルするもの)

岡﨑乾二郎 視覚のカイソウ (豊田市美術館

 

 答えを出す、というのが四谷アートステュディウムのテーゼのようなものとしてあったと思う。本展は、岡﨑さんはこのように答えを出してきたということを見せている。答えの出し方は発明的だ。技法、素材、構造、形式等々の。例えばD.ジャッドは自分の作品を彫刻から区別していたが、そういうのも発明的な答え方だったと思う。

 会場に入るとまず、『あかさかみつけ』など初期のレリーフ作品がずらっと並んでいるのに驚いた。最初から答えを出していたのだろうか。レリーフというものの再発明。絵画のように繊細な色使い、壁面に取り付けられ正面性のようなものもある。立体物としては、コンストラクションといえるかもしれないが、発想は建築関係らしい。シンプルな形体で複雑な構造。一つ一つ見ていくと反復をあまり意識しない反復シリーズ。

 一階には1992年に制作された平面作品も展示されていたが貴重な出展だ。その後のペインティングの大きな開花を思えば、このとき大発明があったといえるだろう。偶然のしみのように見える形を型のように扱う技術が発明されたのだと思う。新しい展開。それまでは、服の型紙を手がかりに、形の素のパタンを重ねたりして空間を作る、というような方向だったと思う。三階に、1979年制作の、型紙に基く作品が展示されている。展覧会の文脈にとって意味があるからこそ出展されたのだと思う。本展では90-91年制作の立体作品まで、この原理が見られると思う。それから、一階の一室でプレゼンされていたように、ブルネレスキやマサッチオの発明を今日に蘇らせる再発明が展開する。また、この90-91年の作品には、長い文のタイトルが付けられている。タイトルを、それ自体言語作品といえるほど構造化するという発明も、この頃なされていたのだと思える。

 二階に展示されたセラミック作品も発明的だと思う。どうすればこうなるのかと思ってしまう。いつも絵具を自作しているから粘土に顔料を混ぜ込んで色を出すという発想が湧くのだろうか。異種の技術を越境的に使う。裁縫の技術を使って美術を作るとか。それにはその技術の本質へのセンスが必要と思える。タイルを使うというのもそうだと思う。

 一階に展示されていたドローイングは文人画という言葉を連想させる。だがこれらは、共同開発の発明によって制作されている。その発明とは一種のロボット、というと人間に代わって絵を描く主体のように思われるかもしれないがそうではなく、任意の人にその絵を描かせる装置、だと思う。ひとりでに手が動くみたいな、憑依の感覚を起こさせる、というのが研究課題だったのではないだろうか。作品を作るのは作家の主体というより何か憑依するようなものなのだろう。

 一階のドローイングは反復的で三階のポンチ絵は想起的だろうか。ポンチ絵は支持体の紙が破かれてめくれていたり重ねられていたりレリーフ的でもある。イメージの現前性が障害されるような感じ。

 ポンチ絵の近くにあるタイル作品は水平面で流動感があり、うち一点は2011年の制作でタイトルをみても洪水を思わせるものだ。本展の作品はいずれも自律性が高いが、これだけは震災との関係を感じる。

 言葉にも(にこそ)カイソウがある。タイトルと作品の写像的関係。タイトルの言葉(テキスト)の構造と作品構造の同型性。構造(言葉と言葉の関係)だけでない。言葉の意味にも意味がある。そういう作品のあり方は、やはり発明的だ。詩画一体のような自律性。高度な言葉の技術、マニエリスム的とでもいえそうな。タイトルは、一般的には、それが何なのかの表明、あるいは、名・名付けになる。そのことは社会的・政治的でありうる。こういうタイトルのあり方は、答えもしくは答え方の発明だと思う。

 三階に、「マルチアクティビティ」という括りのコーナーがあったが、岡﨑さんの仕事をトータルでみれば、マルチアクティビティこそが本領だといえるだろう。灰塚とか四谷とか、そのほか様々なプロジェクトへの関わり、執筆批評活動etc. 近年多分今後は、先月公開研究会がひらかれた「かがく宇かん」が重要なのだろうと思う。

 

(原牧生)

1月(音声詩の上演)

工藤あかね&松平敬 Voice Duo vol.2 あいうえお (近江楽堂)

工藤あかね(ソプラノ)、松平敬(バリトン、物体)

 

 音声詩的なところのある作品が集められた興味深い企画。音声詩そのものというより、言葉が素材となっているものが多かった。

 一曲目『物体を伴ったオペラ』(アルヴィン・ルシエ)。鉛筆二本を軽くぶつけ合わせて音を出す。さらに、その一本を紙箱やびんや缶や皿などの物に当てて、もう一本で軽く叩く。物によって異なる響きの音が出る。音の高さも変わる。音の出方によって叩き方を変えながら、物の音を試していく。そういう音響詩だ。微音の即興演奏でもあったと思う。

 二曲目『セクエンツァⅢ』(ルチアーノ・ベリオ、詩:マルクス・クッター)。即興のボイスパフォーマンスにちょっと似た感じもあるがそうではなく、作曲の通りに詩の言葉を歌う作品だ。早口でいうとか、逆に語の音を延ばすとか、それらに節回しのような音の動きをかけ合わせるとか、そういう操作だったのかもしれない。言葉としては聞き取れなかった。それに笑いやあえぎのような身体的な音声も混じっている。歌唱技術が感じられた。

 五曲目『母韻』(高橋悠治、詩:藤井貞和)。「水牛」のサイトに譜面が出ている。それを見て何となく邦楽の譜面を連想した。語り物とか唄い物のような。いくつか椅子があって立ち歩きながらパフォーマンスするものだったが、そういう指示も書いてある。詩の言葉が母音に替えられているが、言葉が残っているところもある。音声詩のようでもあり唄い物のようでもあるところが面白いのだと思う。

 六曲目『ホウライシダⅠ』(ハヤ・チェルノヴィン)。これは多分言葉は使われてはおらず、声と息づかいだけの作品だったと思う。耳を澄まして聴いていた割にはよく思い出せない。

 八曲目『ザンゲジ・ザーウミ』(高橋悠治、詩:ヴェリミール・フレーブニコフ)。標題のようなものが六つあって、それぞれに、日本語訳された詩の言葉があり、ザーウミがある。ザーウミは、超意味の言語ということで、音声詩のようなものといえると思う。ザーウミは超意味のはずだが、詩の言葉と一緒にあると、その言葉の意味に影響されると思う。言葉とザーウミと、別の次元にあるものを、同じ次元で聴いてしまう。フレーブニコフの詩の宇宙が示されるためには、言葉の導きがある方がいいのだろうが。アカデミックな声楽の発声とは別の声で歌われたらどうだったろう。均質でない色々な声。音声詩的なものがヴォカリーズ的に歌われると、自分が求めているものとは違うという感じがする。

 松平さんは『シュトックハウゼンのすべて』という本を出している。読むと、シュトックハウゼンの作品に彼の人生上のことが反映されているものが意外とあって面白かった。彼は倍音発声の曲も作曲していた。興味深い。シュトックハウゼンにとっての音楽のあり方は、ユニークだが、生や宇宙の全体性のようなものを実現しようとしていると思える。ネット上にシュトックハウゼンの音源があったとして、それを端末で聴くだけでは満たされないものがあるようだ。

 

(原牧生)

12月(詩の機会)

Fushigi  N°5 の大追跡  ( Café&Bar Kichi )

橘上、永澤康太

 

 詩を読むことは詩を経験することになるが、必ずしもそうなるとは限らない。詩を経験するとは、詩の機会に恵まれるというようなことなのだろう。

 今回このユニットは二人で、何をやるかを決めたうえでの即興のセッションだった。前半はそれが五つ。①「つまらない話」を交互にして突っ込みを入れ合う。②架空の答えの(ナンセンスのような)クイズ、その答えを当てようとするやりとり。③自由について交互に話す。まわりくどい喩え話のようであったりする。④しみる話、名言のように語られる話を交互にする。ひねられている。⑤推理バトル。相手を犯人に仕立て上げあう。後半は、壁に貼った大きな紙に、詩を一行ずつ二人で話しながら書いていく。これも即興だが書き直しはできる。

 演劇的といえるパフォーマンス。レトリックのようなロジックのような言葉の飛躍・推進力がスリリングだ。コントのように面白いともいえるが、言葉で真剣に遊ぶとでもいうようなことに詩を感じる。

 

ながさわ合唱団×カゲヤマ気象台『これからのことばたちへ』 ( Art Studio Dungeon )

カゲヤマ気象台(guest)、ながさわ合唱団(山田亮太、関口文子、カニエ・ナハ、永澤康太)

 

 詩を歌にしていく過程も、映像(カゲヤマ気象台)と実演でみることができた。楽譜に書くことはなく、一人がこう歌いたいというのを口ずさんで、他のメンバーは真似して斉唱にしていく。初めにメロディの完成形があるとは限らず、皆で確かめながら共同で作っているような面もある。主催の永澤さんだけでなくコアメンバーも継続しているので、まとまりがよくなっているのだと思う。また、会場は天井が低いコンクリ壁の地下室のようなところで、響きもよかったかもしれない。

 永澤さんの詩は少年期が黄金期という気持ちを感じるところもあり、以前は、歌としての詩に童謡的な感じもあったと思う。中原中也的ともいえたのかもしれないが。今では、ラップというスタイルに、私が思っていた以上に意識的で実践されているようだった。より多くの人への訴求力、言葉の活力など思うと、いわゆる現代詩はラップのカルチャーを無視できない。ラップと合唱という組み合わせはユニークだと思う。

 

坂田一男 捲土重来 (東京ステーションギャラリー

 

 絵画形式の内部で絵画形式の制約を超える。優れた絵画というのはそういうものかもしれないが。第二次大戦後のいわゆる現代美術以前の絵画に、現代美術とはこういうもの(だったはず)と思わされる。思考操作の写像というようなたくさんのデッサン類。それを一つの絵にする。思考操作とは、まずキュビスム(分析)とコンポジション(構成)だったと思うが、そこから進んで多次元的な絵画空間が探究されていたと思う。

 

詩の朗読会 年の瀬編  ( TABULAE )

  

 佐々木智子さん企画の「詩の朗読会」に参加した。参加者それぞれ自分が読みたい詩を持ち寄って順に読む。朗読会というと詩の書き手が自作を読むことが多いかもしれないが、ここでは他の人が書いたものから選んだものを読んだ。自分で書く人もいたかもしれないが、読み手の立場で好きな詩を朗読する集まりといえると思う。自分からは読まないような詩に出会うこともできるし、ちょっと感想を話し合ったりするのを聞くと、他の人達は自分よりずっとよく聞いていると思ったりもする。

 橘さんや永澤さん達は、いわゆる詩の朗読とは別のやり方で、詩としての言葉のパフォーマンスを実践している。そういうやり方に私も共感する。でもこういうオーソドックスな朗読会でも成り立つ、ということに詩への心強さのようなものを感じた。

 

(原牧生)

11月(作品にしない倫理)

DECODE/出来事と記録 – ポスト工業化社会の美術 (埼玉県立近代美術館

 

 やろうとしたことがいろいろあって、詰め込まれた企画だ。

・作家関根伸夫の、もの派だけでない文脈を示す。

・実物が残っていない作品を、記録や資料によって展示する。

 そのために、写真、映像、あるいは再制作を展示する。作家の展示というだけでなく、

 研究プロジェクト(もの派アーカイヴ)の展示という面もある。

 また、写真については、写真が紙のような物であることを前景化した展示もある。

・もの派という文脈を捉え直す作品展示。もの派という文脈に対して、より大きなポスト工業化社会という文脈を提案する。

 関根伸夫が、個人の空想的ともいえる思考をノートに書きためていたのが印象的だった。「位相-大地」は、地面に穴を掘って地表の内側のものを外側に出していくと最終的には内側と外側が入れ替わる、内と外が裏返される、という思考実験に基づいていたそうだ。トポロジカルな操作だから、位相というタイトルだったのだ。もの派の文脈とはちょっと違うものが含まれていたと思える。そういうことを初めて知り、また、映像版で実際の大きさや穴と土塊の位置関係などもよく分かった。

 もの派といわれる作品の多くは、作品として残されなかった。だから記録や資料の展示になるのだが、そもそも作品として残っていないということ自体が、何か考えさせると思う。その頃は、作品として残そうとしていなかったといえるのではないか。そこに、今では忘れられた可能性があったかもしれない。作らない。作者性や、芸術に関わる制度的なものを問題化する。ひとりで考える手作りの思考。作品というより状況。ものによる行為のような。本展と直接関係はないが、そういう可能性は保存されてほしい気がする。

 

subjunctive mood lesson(仮定法のレッスン)vol.2 (三谷公園)

前後(神村恵+高嶋晋一)

 

 TERATOTERA祭り2019参加のパフォーマンス。ホワイトボードにいくつか書かれた言葉から観客が一つを選ぶ。それをやってみるというもの。今回は「存在」だった。他の言葉も観念をあらわすようなもので、本当は分かっていなくても割とよく使われる言葉だ。「存在」を選んだ人は、ある人が何かについて、意味なんかないただの存在だよ、と言ったのが印象に残っていて、「存在」を選んだそうだ。それにしても、現代美術のパロディのようになりかねない、扱いが難しい言葉だ。だが、それに正面から取り組んでいた。用意してきた物を置いたりいじったり。そして行為と並行して考えを話し合う。共同の探究。

 何かをやってみて、それを見直して、そこで見つけたり気付いたりする。その言語化にスリルがある。例えば、一人は単体で置き、もう一人は二つ重ねて置く。二つ重ねた方が存在が意識化されるかもしれない。しかし、単体といっても地面の上に人工物を置いている。それだけで十分意識化されるのではないか。というようなことを話し合ったり。地面に対して置く物が人工物か自然物(野菜など)かの違い、異質な物を間にはさんで浮かすという置き方、重ねた物の類似と相違に関する観察。などが話されたり。即興で進めていたと思うが、話を急に変えて、自分(という身体?)の存在を持ち出したことによって、パフォーマンスとして展開(転回?)した。ひらけていること、隠されていること、むき出しにすること、隠すこと、などに関わる対話があり、存在と存在感の違いが問題になったりした。パフォーマンスは知覚感覚を介在させるものなので、存在感と切り離して存在を扱うのは難しいような気もする。最後に、たわしとはけをすり合わせて、打ち消し合わせる、というパフォーマンスで存在が示された。道具として使われていてかつ使われていない、というようなことだろうか。答えを出す、というところまでいちおういったと思う。

 ホワイトボードには「問題」という語もあった。あらためて思えば、ホワイトボードの語はいずれも、いわばお題のような、問題だったといえる。問題としての語群の中に、「問題」というそれだけ他とは立場が違う語が混じっているのが面白い。もしこの語が選ばれたら、「問題」が問題になったら、観客に問題を選んでもらってそれをやるという、つまり問題の語をタスクのようにすることによって恣意性や無根拠性が回避されている、このパフォーマンスの設定自体に関わるパフォーマンスになるだろうか。

 

(原牧生)